いま世界的に新型コロナパンデミックの真っ只中ですが、日本ではこれに追討ちをかけるように、7月初旬には「令和2年集中豪雨」と命名された災害で熊本県や岐阜県において沢山の方々が犠牲者となられ、大きな被害を蒙ったばかりです。
この度は9年前の東日本大震災において未だ復興途上にある三陸地域のニュースをお届けするに当たり、改めて犠牲となられたすべての方々へ謹んで哀悼の意を捧げるものです。
合掌
編集局記
あっ、流れ星!それとも銀河鉄道かな⁉まさか~
子供たちの夢をのせて走る銀河鉄道だ~!機関車の前に立っている人の影は…
もしかして・・・かな⁉
ここにもコロナウィルスの影響が…残念ですが、次回の小岩井ウィンターイルミネーション「銀河農場の夜」は行われないので画像でお楽しみください。
岩手山にかかる雲は大きいね~あれはね、銀河鉄道が流星になって現れる時の駅なんだよ~見えるでしょ~銀河鉄道駅から岩手山のてっぺんに、ひょいと降りた賢治の姿が…森の妖精や、動物や木や花や雪や風や泉や川や霧・・・自然が…ボクら…子供たちと一緒に賢治を待ってるんだ~ 早く来ないかな~クリスマス…きっとマリア観音様も一緒だよ・・・
森の動物たちもお待ちかね・・・
牛さんたちも勢揃い
岩手山からのスロープは、霧たちの架け橋なんだよ~
星座をお供に銀河鉄道「小岩井牧場駅」に到着だ~い!
岩⼿県出⾝の詩人・童話作家の宮沢賢治は、
小岩井農場をこよなく愛し多くの作品を残しています。
小岩井農場 一号牛舎-四号牛舎
「賢治もきっと感じた筈…長閑な夏の一日を・・・」
賢治と小岩井農場の出会い
賢治と⼩岩井農場の最初の接点は、1910(明治43)年、中学二年の秋であったとされています。中学校の登⼭遠⾜に参加し、岩⼿山からの帰り道に⽴ち寄りました。
畜産中心の農場経営になって凡そ10年。ヨーロッパ⾵の牧畜・耕作⾵風景に魅了されたのか、それからは幾度となく農場を訪れています。
中学⼆年の時、寮の同室に武安丈夫という小岩井農場に父親(育⽜部技士・武安陽吉)が勤めていた少年がおり、この少年について、次のような短歌を詠んでいます。
小岩井の育牛長の一人子とこの一冬は机ならぶる
これが、賢治が初めて小岩井農場を登場させた作品ということになります。ただし、実際には丈夫の父陽吉は育牛長ではありませんでした。賢治が勘違いをしたのか、あえて「育⽜長」としたかは定かではありません。
賢治作品の中の小岩井農場
前述の短歌の後、晩年にかけていくつかの作品の舞台に小岩井農場を選んでいます。⽣前発⾏した本は、心象スケッチ『春と修羅』・イーハトヴ童話『注⽂の多い料理店』(いずれも大正13年発⾏)の2冊ですが、双⽅に⼩岩井農場を舞台とした作品(「⼩岩井農場」・「狼森と笊森、盗森」)があります。
特に⼼象スケッチ『春と修羅』所収の「小岩井農場」は1922(⼤正11)年5月の⼩岩井農場⾵景が⽣き⽣きと描かれ、当時の様⼦を知る上でも貴重な資料となっています。
狼森
童話 「狼森と笊森、盗森」に登場。
小岩井農場が登場する作品
● 童話
「狼森と笊森、盗森」「おきなぐさ」「耕耘部の時計」
● 詩
「小岩井農場」「秋田街道」「遠足統率」「春谷暁臥」「母に云ふ」
● 文語詩
「塔中秘事」「青柳教諭を送る」
トロ馬車(昭和10年)
トロ馬車(馬車鉄道)は、1904年(明治37年)から1958年(昭和33年)まで使用されていました。この頃はまだ、現在のように樹木が生え揃っていませんね~。
兎に角、馬が頼りの時代でした・・・
星と自然館(カフェ)へ向かう道。どの道も、新緑が大変美しく、吹く風が心地よい
宮沢賢治と小岩井農場年表
編集後記
まだまだ小岩井農場のこと沢山あり過ぎて……コロナ禍に加えてこの暑さ……!
齢のせいにしたくなくても…つい音をあげちゃいます。
引き続きご紹介したいのですが、再び訪れる機会を楽しみにして、ひとまず小休止といたします。
兵庫県出石への旅の後、岩手県花巻市における宮沢賢治のご紹介を致すつもりです。
有難うございました。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
小岩井農牧株式会社 〒020-0507 岩手県岩手郡雫石町丸谷地36番地1 TEL:019-692-6027
日原もとこ
東北芸術工科大学 名誉教授 / 風土・色彩文化研究所 主宰 / まんだら塾塾長
日本デザイン学会名誉会員 / 日本インテリア学会名誉会員 /
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