ZIPANG-4 TOKIO 2020速報 トルコを代表する世界遺産、「アヤソフィア」改名&世界初「セーフ・ツーリズム認証」プログラムを導入&カッパドキアの空に浮かぶ気球からパフォーマンスを配信!

ブルーモスク

オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造された『世界で最も美しいモスク』と評される通称”ブルーモスク”と言われている「スルタンアフメットモスク」。スルタンアフメト・モスクは、トルコのイスタンブールを代表するモスクで、世界遺産であるイスタンブール歴史地域の歴史的建造物群のひとつであります。設計はメフメト・アー。


世界遺産のイスタンブール歴史地区。
手前からブルーモスク(スルタンアフメト・モスク)、アヤソフィア イ ケビル ジャーミィ (Ayasofya-i Kebir Camii)、ボスポラス海峡。

アスペンドス古代遺跡において、国立オペラ・バレエ団による特別公演

世界最古の神殿~ギョベクリテぺ遺跡~
2018年、トルコにあるギョベクリテぺ遺跡は、ユネスコ世界文化遺産に登録。この地で発見された驚異の巨石建造物群は世界最古の神殿跡と考えられ、人類の宗教や文化の原点となった「ゼロ・ポイント」ともいわれています。


トルコの街の色。日本の祭りの色の鮮やかさによく似ているけれど・・・⁉
オーストリア・ウイーンのハプスブルグ家・夏の離宮「シェーンブルン宮殿」外壁の
マリアテレジア イエローとも・・・


日本の祭りの色と比べてみると・・・

青森県八戸市「八戸三社大祭」


福井県小浜市「小浜祭」


石川県七尾市「青伯祭」


高知県高知市「よさこい祭り」



いま世界的に新型コロナパンデミックの真っ只中ですが、日本ではこれに追討ちをかけるように、7月初旬には異常気象による局地的な集中豪雨現象が各地に発生しております。気象庁はこれを称して、「令和2年集中豪雨」と命名しました。

特に熊本県南部、川辺川・球磨川流域を中心とした地区では急激な増水濁流で81名の方々が死亡、行方不明となられる一方、岐阜県下では広範囲に亘る崖崩れや土砂災害、幹線道路の崩落で交通網の遮断。飛騨川流域を中心とする地域では家屋の損壊、浸水等の被害がありました。

ここに謹んで被災された方々への御見舞と共に尊き命を犠牲にされた方々へ深く哀悼の意を捧げます。

残された私達はその戴いたメッセージを正しく新しい未来へと生かす事を誓い祈念するものであります。

編集局記



トルコを代表する世界遺産、アヤソフィア~「アヤソフィア イ ケビル ジャーミィ」と改名し、入場料も無料に~


トルコについて

地中海沿岸に位置し、有名なボスポラス海峡が隔てるアジアとヨーロッパを結ぶトルコは、多様な気候と文化交流の中心地であることにより、何世紀にもわたる多様な文明が反映された歴史、自然や美食を有し、2019年には約5,200万人の観光客が訪れました。


文化が交差するこの国は、伝統とモダンが融合した芸術やファッションに大変寛容で、またダイナミックなショッピングとエンターテイメントライフによって世界中から訪れる人々を魅了し続けています。


 世界有数の建築遺産を数多く有するトルコの中でも、長年において“トルコの異文化共存の象徴”として世界中の人々を魅了し続けてきた、「アヤソフィア(ギリシャ語ではハギア・ソフィア)」 は、このたび「アヤソフィア イ ケビル ジャーミィ (Ayasofya-i Kebir Camii)」 と改名し、博物館からモスク(イスラム教礼拝所)へとかつての役割を取り戻すこととなりました。


荘厳さ、大きさ、機能性を兼ね備えた本モスクにはどなたでも無料で入場できるることとなりました。


人類の文化的蓄積や歴史的遺産として大きな意味を持つアヤソフィアは、近隣のトプカプ宮殿博物館と並ぶイスタンブールを代表する人気観光スポットのひとつです。


1985年にユネスコの世界文化遺産にも登録され、現在も礼拝時間以外は世界中からの旅行者にその門戸を開いています。


また、海外旅行がままならない現在、トルコ共和国文化観光省が開発した3次元画像処理技術によるバーチャルツアーを利用することで、ご自宅に居ながらにして観光を体験できます。360度見渡せるこのバーチャルツアーは、旅行好きな方だけでなく、アート愛好家にも必見です。


数世紀に渡る歴史

537年にユスティニアヌス1世が東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープル(現イスタンブール)に建設したアヤソフィアは、当時、最も壮大な宗教施設とされていました。文字通り、「聖なる叡智」 と名付けられたこの建物は、創設以来、いつの時代にも神聖なインスピレーションを体現してきました。


独特なデザインや巨大なドームがそれを特徴づけ、また、当時の技術では不可能と思われた建築課題の数々を克服する最先端の建築技法が導入されてきたのも、このアヤソフィアです。


※「アヤソフィア」または「ハギア・ソフィア」とは、「聖なる叡智」を意味します。


古くビザンチン時代から聖なる場所とされていた丘の上に、当時最大の宗教施設として建設され、537年にユスティニアヌス帝が礼拝の場として開放しました。


その後1453年に、オスマン帝国のメフメト2世がイスタンブールを征服し、モスクに改築するまでの916年間、教会として機能していましたが、オスマン帝国はイスタンブール征服直後からその建築的強化を図り、可能な限り最善の方法で維持に努めました。


そのおかげで同帝国時代、数度の増築を繰り返しつつ、モスクとして存続することができたと言われています。


まばゆいばかりの芸術的名建築

アヤソフィアはオスマン帝国時代にミナレット(尖塔)、メドレセ(学院)、小学校、祈祷告知係用の宿泊所、水源とセットの貯水槽、公共の噴水、日時計、評議委員会室などが徐々に加えられ、複合施設へと変貌していきました。


建築としての最大の特徴は、中央部分を占める巨大なドームです。また、様々な時代のモザイクに彩られるアヤソフィアの中でも、建設当初から残るナルテックス(キリスト教の聖堂や教会の拝廊)の抽象モザイクは一見の価値があります。


9世紀に制作されたとみられる「聖母子像」や「熾天使像」を始め、ビザンチン時代から残る歴史的なモザイクは今なお訪れる人々の心を惹きつけてやみません。


さらに、世界8番目の不思議と目されるアヤソフィアでは、その外観や庭のみならず、オスマン帝国歴代のスルタンの霊廟や控え壁、宝物庫、救貧院などもご覧になれます。



アヤソフィアの名物ネコ「グリ」

アヤソフィアでもうひとつ有名なのは、2004年に守衛室の下で生まれて以来、この大建築に16年も住み続けている猫の「グリ」です。


「アヤソフィアの猫」として世界の旅行者たちから注目を集めるグリは、今では、「世界で最も撮影される猫」の地位を獲得しています。



トルコ~世界初となる
「セーフ・ツーリズム認証」プログラムを導入~


トルコ共和国・文化観光省(代表:メフメット・ヌリ・エルソイ文化観光大臣)は、「セーフ・ツーリズム認証」プログラムを開始したことを発表しました。


本認定プログラムは、航空会社や空港をはじめとする交通機関、宿泊施設、飲食施設などが健康と衛生管理両面の高度な要件を満たしていることを証明する文書で、本認定書は国際機関から付与されるものです。


トルコが先駆けて取り組んでいる「セーフ・ツーリズム認証」プログラムの施策を世界に向けて発信する機会を得て、メフメット・ヌリ・エルソイ文化観光大臣は国際基準に従ったプログラムについて次のように述べました。


「我が国の『セーフ・ツーリズム認証』プログラムは、あらゆる観点において世界で最初の取り組みと言えます。私たちは国際線再開後、各国からのお客様をお迎えするのを楽しみにしており、そのことをこの機会に今一度思い出していただけますと幸いです。

これまで取り組んでまいりましたお客様のための施策がご高評をいただきましたことは、『セーフ・ツーリズム認証』プログラムの有用性をさらに確たるものにしました。」


「セーフ・ツーリズム認証」プログラムの2つの主要ポイント


・トルコで休暇を過ごす皆様のために、あらゆる側面から入国者サポート


「セーフ・ツーリズム認証」プログラムは、申請数・認証施設数ともに急速に増加しており、アイドゥン、アンタルヤ、ムーラなどの観光都市ではこの認証のおかげで新型コロナウイルス症例数は非常に少なく抑えられています。


・「セーフ・ツーリズム認証」プログラムで安らぎ溢れる満喫の旅行提供

アスペンドス古代劇場

国内外の観光客に人気のアンタルヤにおいて、トルコと親交が深い各国大使と国際報道陣を迎え、”ReTurkey” ミーティングと題する「セーフ・ツーリズム認証」についての記者会見を開催。

参加者は、実際に現地を訪れる旅行者と同じ体験に加え、飛行機や空港、ホテルへの移動に至るまで、「セーフ・ツーリズム認証」プログラムに基づいた対応をすべて体験。

なお、本ミーティングの一環として、アスペンドス古代劇場において国立オペラ・バレエ団による特別公演が行われました。


この未曽有の事態の中で、公共・民間セクターが共に参画・実施している「セーフ・ツーリズム認証」プログラムでは、交通機関や宿泊施設からその人員およびお客様の健康状態まで広範にわたり新たな対応策を講じています。


エルソイ大臣は、この認証プログラムと今後の取り組みの重要性とその細やかさを強調しています。


「何千もの医療従事者の貢献のおかげで、アイドゥン、アンタルヤ、ムーラなどは観光都市でありながら、医療の中核地になっています。私たちはこのエピデミックの時期にあっても、我が国を訪れる観光客の皆様が安全にお過ごしいただけるよう、あらゆる側面から入国者へのサポートを検討してまいりました。

また7月1日より、外国人旅行者のための新型コロナウイルス感染症などに備える健康保険パッケージもご用意いたしております。15、19,23ユーロの保険でそれぞれ3000、5000、7000ユーロまでの医療費がカバーされるもので、受託航空会社、パスポートコントロール通過前にある販売所、旅行業者、オンライン等で購入できます。トルコ国内を快適にご旅行いただくために、『セーフ・ツーリズム認証』プログラムはじめ、あらゆる対策を検討しております」


安心のトルコ旅行を約束する「セーフ・ツーリズム認証」プログラムについての詳細は、トルコ観光広報・開発庁(TGA)の公式ウェブサイトにて、トルコ語、英語、ドイツ語、ロシア語でご覧になれます。


トルコ共和国では、既に2020年夏季より「ヘルシー・ツーリズム(健康旅行)認証」プログラムを開始しています。


「ヘルシー・ツーリズム(健康旅行)認証」プログラム4つの主要ポイント


この認証プログラムは次の4つの主要な項目で構成されています。

■ お客様の健康と安全

■ 従業員の健康と安全

■ 各施設における予防措置

■ 輸送機関の予防措置


メフメット・ヌリ・エルソイ文化観光大臣は、コロナ危機からの脱却と正常化へ向けてのこの認証プログラムと日程についての声明で、この取り組みの重要性とその細やかさを強調しています。

当時の声明

「トルコでは2020年5月4日現在、空港、国内線、高速道路、観光施設が個別に発行されたパンデミック対策手続きおよび認証獲得手続きを完了しています。また5月中にホテルの認定プロセスの実施を開始予定です。

2020年6月1日以降には、文化観光省のホームページはじめあらゆるメディアを使って、認証獲得した施設のリストアップをしていきます。トルコでは、国民にもこの国を訪れる皆様にも旅行中快適に過ごしていただけるよう、責任を持って取り組んでいます。


トルコ人のおもてなしを表すことわざに

『お客様の場所は私たちの頭の上にあります』

(日本語の「お客様は神様です」に近い表現)

というのがあります。いつもこの言葉を胸にお客様をお迎えする活動を継続していきます」
(メフメット・ヌリ・エルソイ文化観光大臣のコメント) 



~ユネスコ世界遺産の中でも異彩を放つカッパドキアがDJパフォーマンスの舞台に~


トルコ共和国・文化観光省 (代表:メフメット・ヌリ・ エルソイ文化観光大臣)とトルコ観光広報・開発庁(TGA)は、世界的なアーティスト兼プロデューサーであるベン・ベーマー(Ben Böhmer)を迎え、カッパドキアの空に浮かぶ気球から世界で初めてとなる空中イベントを開催しました。

先駆的なエレクトロニックミュージックのライブストリーミングメディアである「Cercle」が主導となり、2020年8月31日に実現した本イベントは、カッパドキア観光に欠かせない気球がエレクトロニックミュージックの軽快なリズムに乗って日の出をバックに空を漂う光景を眺めるという、稀な体験が現実のものとなりトルコ国内でも注目を集めています。


今回イベント参加の為、初めてカッパドキアを訪れたCercleのスタッフは幻想的な光景を世界に向けて発信する機会を得て次のように述べました。


 「Cercleは世界中の最も面白い場所で印象深いパフォーマンスを企画してきましたが、空でのパフォーマンスはこのカッパドキアが初めてです。カッパドキアのミステリアスな光景をバックに、飛行中のパフォーマンスを届けるという、これまでで最もエキサイティングなライブストリーミングを実現することができました。音楽を奏でながら空からの景色を眺めるという大いなる経験は忘れ難いです」

(CercleのCEOデレク・バルボラ氏のコメント)


DJベン・ベーマーのサウンドシステム一式と配信機材を気球に乗せ、その気球からの映像と地上からの映像、その他に2機のドローンによる上空からの映像を気球での演奏と共に楽しめるスペシャルイベントの模様は、早くも100万回再生回数を突破しています。


トルコ観光広報・開発庁(TGA)について

トルコ観光広報・開発庁は国内外の観光市場でのセールスおよびプロモーション、有形無形の自然遺産、文化遺産、生物的遺産や人工遺産の発見・開発、また短・中・長期のコミュニケーション活動およびマーケティング活動を通じて受け入れ体制のさらなる充実やサービスの質向上を図り、国民経済における観光投資の割合を高めることを担っています。


さらに、文化観光省が定めたツーリズム 戦略や政策に即して全般的なプロモーション・マーケティング・コミュニケーション活動を行い、トルコ の観光目標達成を目指します。


また、現在知られる観光地のグローバルなプロモーションやマーケテ ィングと同時に、潜在的な観光地の掘り起こしも行っています。



日本とトルコ―国交樹立96年―

エルトゥールル号遭難事件 ―日本・トルコ友好の原点―

日本とトルコ友好の原点 エルドゥールル号遭難事件
エルトゥールル号乗組員 出典:『土耳其国軍艦エルトグルル号』


1887年(明治20年)、小松宮彰仁(こまつのみや・あきひと)親王殿下はヨーロッパ視察旅行の帰途、イスタンブールをご訪問し、オスマン・トルコ皇帝(スルタン)アブデュル・ハミト2世に謁見しました。


この時の歓待に感謝し、翌年、明治天皇は皇帝に親書と漆器を贈られました。1889年7月、アブデュル・ハミト2世は、日本に答礼の特派使節を派遣しました。オスマン・パシャ(海軍少将)を代表として軍艦エルトゥールル号に乗ってやってきた使節団はトルコから日本に派遣された最初の使節でした。


1890年6月、同使節団は横浜に到着、オスマン・パシャは明治天皇に拝謁し、オスマン帝国の最高勲章を捧呈しました。使節は約3カ月間、日本に滞在し、トルコに帰還する途中の9月16日夜、和歌山県の樫野崎灯台付近で台風による強風と高波の影響を受け座礁、沈没しました。


樫野崎灯台がある大島村(現在の串本町)では、生存者の保護と遺体収容のため、村を挙げて懸命に対応にあたりました。また、日本海軍も知らせを受けると、軍艦八重山を派遣し、村民と協力して遭難者の埋葬を行いました。


救出された69名の乗組員は、神戸で治療を受け、その後、明治天皇の命により軍艦金剛、比叡によって、丁重にトルコへ送還されました。両軍艦は1891年1月2日、イスタンブールに到着し、歓迎を受け、両艦長には皇帝から勲章が授与されました。これに対し、後日、明治天皇からもトルコ海軍少将等へ勲章が授与されました。


また、約600名の死者を出した本事件は日本国内で大きく報道され、義捐金も集められました。このような日本国民の対応はトルコ人の心を打ったとされ、極めて痛ましい事件ではありましたが、本事件は両国の友好の原点とされています。


20世紀初頭の日本・トルコ関係


ペルシア及びトルコ方面への視察旅行に関する申請書の添付地図

平田知夫在カルカッタ総領事代理が小村寿太郎外務大臣に上申した視察旅行申請書に添付されていた地図。朱線が旅行予定経路でカルカッタを起点、イスタンブールを終点としている。


1904年から1905年にかけて、日本とロシアは満州と韓国の権益をめぐって戦争を行いました。バルカン情勢とロシアの黒海艦隊の動静を把握するため、外務省はトルコ国内で情報収集を行っていました。


牧野伸顕(まきの・のぶあき)在オーストリア公使を通じて小村寿太郎(こむら・じゅたろう)外務大臣に寄せられた情報によると、トルコ国民は一般に日本に同情的であり、トルコ軍の参謀司令官も日本軍を賞賛し、日本の勝利を予見していました。しかし、皇帝アブデュル・ハミト2世は、ロシアに不利な新聞報道を規制しました。皇帝は、ロシアが新興国日本に敗れた場合、トルコを日本の例にならって改革しようとする運動が起きることを恐れたようです。


その後、1908年にマケドニア駐留軍が蜂起し、1878年に停止された憲法(ミドハト憲法)を復活させ、皇帝の専制政治を改めさせました(青年トルコ革命)。そして翌年、アブデュル・ハミト2世は国会の議決により廃位となりました。


他方、日本政府はトルコとの国交を樹立すべく、日露戦争中も交渉を行っていました。1909年に小村寿太郎外務大臣が内田康哉(うちだ・やすや)在オーストリア大使に送った訓令には、バルカン地域諸国の中では、トルコとの国交樹立を第一に希望していることが記されています。


交渉に際し、当初、日本は西洋列国と同様の内容でトルコとの条約締結を試みましたが、日本が領事裁判権を有することをトルコが認めなかったため、日本側は領事裁判権には触れず、外交関係の開始のみを目的とする宣言書の調印を提案しました。


しかし、領事裁判権の撤廃に苦しんでいたトルコ側は、領事裁判権に関して満足できない条約は新たに結ばないという方針をとり、さらに1911年には、トルコとイタリアの間で戦争が勃発したため、交渉は不成立に終わりました。


この頃、インドのカルカッタ総領事館に勤務していた平田知夫(ひらた・ともお)総領事代理から、転任前にペルシアやトルコを調査したいとの上申がありました。その上申書を見ると、トルコがイギリス、ロシア、ドイツといった列国の重要な活動舞台となっていることや、「日露戦争における日本の勝利が、同じ東洋人として彼らに感動を与え、政治的革命が起こった」という見方が有力となっており、今後の日本との関係において好影響を与える可能性があることなどが記されていて、当時のトルコに対する日本の外交官の認識の一端がうかがえます。


この後、平田は1912年5月にオーストリア大使館勤務の名義で、イスタンブールに常駐し、バルカン情勢を報告することを命ぜられ、現地を視察しましたが、同年10月からバルカン戦争が起こるなど情勢が大きく変化したため、結局駐在は見送られました。


トルコ共和国の成立と日土国交樹立

余白には閣僚の花押がみられる。(左側最上段にあるのが首相の加藤友三郎の花押。)  既得の地位をできるだけ維持することを重視するが、譲歩する場合は、他の主要連合国と均等の地位を維持すること、各国間で意見の相違が生じた場合は穏健公正の態度で臨むことなどの方針が示されている。


トルコ国との平和条約(ローザンヌ条約)認証謄本

本条約により平和状態が回復されるとともに、現在のトルコ共和国の領域が画定された。地図は、条約第2条で決定された黒海からエーゲ海に至るまでのトルコ国境を示したもの。


1912年から始まったバルカン戦争にトルコ軍は敗北し、オスマン帝国によるバルカン支配は終わりを迎えました。これ以後、バルカンは民族国家の割拠する地となり、まさに「ヨーロッパの火薬庫」となりました。


1914年、セルビア人民族主義者によるオーストリア皇太子夫妻暗殺をきっかけとして、第一次世界大戦が勃発すると、トルコは同盟国側(ドイツ側)に立ち参戦しました。トルコ軍はロシア軍、イギリス軍、フランス軍と各地で戦闘を交えましたが、敗北を重ね、1918年10月30日、休戦条約に署名しました。


同年11月13日には、連合国軍が首都イスタンブールを占領し、1920年8月10日には講和条約として、連合国とオスマン帝国政府の間でセーブル条約が結ばれました(日本も連合国の一員として条約に調印)。


条約は、ボスポラス・ダーダネルス両海峡の非武装化と国際管理、アルメニアの独立、ギリシャへの領土割譲、英仏によるアラブ地域の分割と委任統治、連合国による財政管理・軍備制限・領事裁判権の復活、仏伊の勢力圏設定など、オスマン帝国にとって大変厳しい内容で、これによりオスマン帝国は多くの領土を失いました。


本条約を受諾したオスマン帝国政府に対し、トルコ国内では批判が高まりました。軍人のムスタファ・ケマル・パシャを中心として、連合国の領土分割に反対すべく抵抗運動が組織され、1920年、アンカラに「革命政権」が誕生しました。


その後、ケマルは、連合国の意を受けてアナトリアに侵攻してきたギリシャ軍を追い返し、さらに進軍を続けました。ケマルの勢力を無視できなくなった連合国側は、セーブル条約に代わる新しい講和条約を締結するため、イスタンブールのオスマン帝国政府(旧政府)とケマル率いるアンカラ政府(新政府)の両者を講和会議に招請しましたが、ここに至り、アンカラ政府は、旧政府の存在を否定し、スルタン制廃止、オスマン帝国滅亡を決議しました。


こうして、1922年11月20日からスイスのローザンヌで講和会議が開かれ、翌1923年7月24日、トルコは連合国と対等な立場で新たな条約(ローザンヌ条約)を結ぶことに成功しました。


ローザンヌ条約の締結によりセーブル条約は破棄され、トルコは一部領土の再獲得、両海峡への法的主権の留保付回復、領事裁判権の廃止を勝ち得ました。負債返還の義務は残されたもののトルコ側の主張はほとんど認められ、同年、トルコはケマルを大統領とする「トルコ共和国」として新たな出発を遂げました。


また、1924年8月6日、日本政府は批准書受託国であるフランス政府にローザンヌ条約の批准書を寄託しました。これにより、ローザンヌ条約は発効し、日本とトルコは正式に国交を樹立しました。

(注)8月6日時点で批准書を寄託していた日・英・伊・ギリシャ・トルコの5か国間で発効


大使館の開設


ケマル・パシャ写真

ムスタファ・ケマル・パシャ(1881~1938)

オスマン帝国時代は陸軍将校として活躍。第1次大戦ではガリポリ戦でダーダネルス海峡を死守するなど功績を挙げた。ローザンヌ条約調印後の1923年10月、新国家の首都をアンカラとし、政体を共和制とすることを宣言、初代大統領に就任した。

宗教と政治を分離しなければトルコの発展はないと考え、国家の根幹となる原理として政教分離(世俗主義)を断行。憲法からイスラム教を国教とする条文を削除し、トルコ語にはアラビア文字に替えてアルファベットを当てた。


また一夫多妻制を禁止し、1934年には女性の参政権を実現させた。彼の推進したこうした政策によって、トルコは他のイスラム世界とは一線を画す独自の国家路線を歩み始めた。1934年には、議会より「アタテュルク」(父なるトルコ人)の姓を贈られた。

本写真は小幡大使が信任状捧呈式の報告書に添付して送ってきたもの。


日本国トルコ国間通商航海条約(トルコ側批准書)
1934年3月20日批准書交換

国璽(シール)の上にケマル・パシャの署名が見られる。


国交を樹立した翌年の1925年3月23日、日本はトルコに大使館を開設しました。同年11月17日には、初代在トルコ大使小幡酉吉(おばた・ゆうきち)がイスタンブールに到着し、同月23日、ケマル・パシャ大統領に信任状を捧呈しました。小幡はケマルについて「眼光炯々(けいけい)人ヲ凝視スル様ハ一種ノ凄味ヲ帯フ」と描写しています。ケマルは日本最初の全権大使を迎えることができて大いに満足であり、将来両国親善のために最善の努力を惜しまないと述べました。 

(注)炯々=鋭く光る様 


一方、1925年7月7日、東京にトルコ大使館が開設されました(フルスィ・フアド・ベイが臨時代理大使として着任)。そして、1929年(昭和4年)4月7日には、初代在日トルコ大使としてジェヴァド・ベイが着任し、同月16日に昭和天皇に信任状を捧呈しました。


また、ローザンヌ会議で結ばれた通商条約の期間満了にともない、1930年10月11日には、日本国トルコ国間通商航海条約が結ばれました。本条約は、日本とトルコの二国間で結ばれた最初の条約です。  なお、この時期のトルコ大使館には、後に首相となる芦田均(あしだ・ひとし)が一等書記官として勤めていました(1928年10月から1929年11月までは臨時代理大使)。芦田はボスポラス・ダーダネルス両海峡に関して『君府海峡通航制度史論』という著書を著し、この研究によって東京帝国大学から法学博士の学位を授与されています。

(注)君府=コンスタンティノープル=イスタンブール



編集後記

前号で呟いておりました目的地、兵庫県出石に向けてのコース選択を中山道か、はてさて東海道かと思案中に、何と日本と友好関係にある国トルコ・イスタンブールから速報が届き、優先的にご案内することと相成りました。

小生生まれつき、"臨機応変型" (と言えばカッコイイですが…さにあらず八咫烏特有の自由飛来) にて、真っ平御免仕り候。m(_ _)m

今後、余り脇見をせず、歩を速め一直線・・・イヤ… 「一度あることは二度ある」と申しますので此処であまり大口を叩くべきでないナ。(ホント…確かに自信ないです)

兎に角、前以て予定をお知らせしなければウソついたコトにはならないのに……
一見賢そうで??、トンマだな〜お前は?・・・
と、独り言。 



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使



協力(順不同・敬称略)

外務省 〒100-8919 東京都千代田区霞が関2-2-1 電話(代表)03-3580-3311

トルコ共和国大使館 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前2丁目33-6 電話:03-3470-6380



※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。   




ZIPANG-4 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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