ZIPANG-4 TOKIO 2020 黄金の国ジパング『ケセン』(その12)宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅰ

気仙(けせん)は、伝統文化がいまも豊かに息づく土地です。
歴史的には「黄金の国ジパング」の名の元となった金の産出地としても知られ、 信仰、祭礼、踊り、建築物や美術工芸などを今に伝えています。

柳田國男が絶賛した地としても知られ、宮沢賢治の創作の源一つでもありました。
現在は、大船渡市、陸前高田市、住田町の2市1町に分かれていますが、 文化財の宝庫として、今もケセンは「黄金の国」と呼ぶにふさわしいエリアです。  


宮沢賢治がこよなく愛した高原

文化的景観

種山ヶ原


種山ヶ原とは

種山ヶ原は、岩手県奥州市、気仙郡住田町、遠野市にまたがる物見山(種山)を頂点とする高原地帯で、物見山・大森山・立石などを総称して別名「種山高原」とも呼ばれます。平原状の高原で気候も冷涼なことから馬の放牧地に適し、藩政時代から利用されてきました。
(岩手県気仙郡住田町世田米大股)


宮沢賢治がこよなく愛した高原としても知られ、童話「風の又三郎」「種山ヶ原」、劇「種山ヶ原の夜」などの作品は、種山ヶ原の風景や気象を題材にしています。宮沢賢治の発想の源である岩手の自然風景地「イーハトーブの風景地」の一つに指定されています。


種山ケ原からの眺望

物見山(871m)頂上と賢治の碑付近からの見事な眺望。北は岩手山・早地峰の連山、東は五葉山、南は室根山に至る北上山系の山なみ、西は焼石連峰と奥羽山脈の連山、ふもとに広がる北上平野を一望に収めます。


一面の黄色い絨毯

初夏には西洋タンポポが咲き、高原が一一面、黄色い絨毯となります。


宮沢賢治『風の又三郎』碑

アウトドア施設「種山高原・星座の森」の中央にあるコミュニティー広場に、市民有志によって設置された「風の又三郎像」(中村晋也氏作)が立っています。


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いま世界的に新型コロナパンデミックの真っ只中ですが、日本ではこれに追討ちをかけるように、7月初旬には「令和2年集中豪雨」と命名された災害で熊本県や岐阜県において沢山の方々が犠牲者となられ、大きな被害を蒙ったばかりです。

この度は9年前の東日本大震災において未だ復興途上にある三陸地域のニュースをお届けするに当たり、改めて犠牲となられたすべての方々へ謹んで哀悼の意を捧げるものです。

合掌

編集局記

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大正13年頃の早朝の人首町(菊慶旅館の二階から)

詩「人首町」は、早朝の菊慶旅館からまっすぐ五輪峠方向を眺望し、その印象を表したものです。日付けが「五輪峠」「丘陵地を過ぎる」の、翌大正13年3月25日となっており、また「下角稿」の日付から、前夜当旅館に投宿したことが推測できます。


人首町(ひとかべまち)

宮沢賢治

雪や雑木にあさひがふり

丘のはざまのいっぽん町は

あさましいまで光ってゐる

そのうしろにはのっそり白い五輪峠

五輪峠のいたゞきで

鉛の雲が湧きまた翔け

南につゞく種山ヶ原のなだらは

渦巻くひかりの霧でいっぱい

つめたい風の合間から

ひばりの声も聞こえてくるし

やどり木のまりには艸いろのもあって

その梢から落ちるやうに飛ぶ鳥もある


1924年3月25日 春と修羅 第二集

詩「人首町」は、
早朝の菊慶旅館からまっすぐ五輪峠方向を眺望し、その印象を表したものです。


はじめに

人首(現奥州市江刺区米里)は歴史深い土地柄です。北の明神山から、東の大森山、物見山、烏堂山は、それぞれ坂上田村麻呂と関連ある史跡や、言い伝えのある山々です。その中で大森山は、田村麻呂軍と蝦夷軍の最後の攻防地で、地名の由来ともなった人首丸(悪路王の弟の大武丸の子)の墓があり、言わばこの一帯は古代史エリアになります。


五輪峠

またそれらに五輪峠が加われば、広大な蛇紋岩及び班糲岩層地帯となり、特に種山高原の麓の古歌葉周辺から伊手の口沢にかけての山間部は、金・銀・銅・鉄鉱等の有用鉱物の埋蔵が豊富で、平泉藤原氏時代から採掘され、その後の江刺の鉱山業発展の源ともなっております。


その中心部を、東西に走り抜けるのが盛(さかり)街道ですが、それは一方の五輪街道と共に、古くから内陸と三陸を結ぶ重要な交通路として発達してきました。人首町はちょうどその分岐点に当ります。


慶長11年(1606)、沼辺氏が現宮城県から地頭職として移封され、人首川沿いの地形を活かしての町づくりが始まり、現在の町並みの原形が完成したのは明和3年(1766)と伝えられます。伊達と南部の藩境として要所に位置し、また盛や五輪街道との関係から、常に旅人の往来が激しく、その頃に宿場町としての基盤が形成されました。


その後、人首町が最も繁栄したのは、大正から昭和初期にかけてのことです。明治30年に岩手の八県道のひとつとして盛街道が認定され、そこに一時的ながらも栗木鉄山の隆盛や、またカトリック教会とハリストス正教会(ロシア正教)の二つの教会の出現などが影響し、その繁栄ぶりは昭和初年に作成された「米里名所絵葉書」等に、良く表れています。


明治39年には、河東碧梧桐が、遠野に行く途中に足を休め「人首(ひとくび)と書いて何と讀む寒さかな」と詠んでいます。また大正9年には、柳田国男が三陸海岸北上の旅行の際、佐々木喜善の配慮で人首に立ち寄り、村役場を訪ねていますが、喜善の『江刺郡昔話』(大正11年発行)は、人首出身の浅倉利蔵から聞いた話が主となっているのです。


宮沢賢治が人首に足を踏み入れたのは、そんな状況の中でした。賢治は二度、人首を訪れていますが、一度目は大正6年9月3日の江刺郡の地質調査の途で、二度目は大正13年3月24日(〜25日)のことです。


江刺郡への地質調査

賢治が友人二人を伴って、初めて江刺を訪れたのは大正6年8月28日のことでした。目的は江刺の山々の地質調査ですが、その期間は当初の予定通りとすれば、同6年9月8日迄となります。


賢治の歩いた江刺の街道は、黒石街道、気仙街道、盛街道、五輪街道ですが、それらのほとんどが大正年間に改良整備され、名称も盛街道だけが「県道」となり、他はみな「里道(村道)」に改められました。


また江刺の東南部の山々には、「姥石峠・鴬峠・七曲峠・越路峠」の4つの峠が存在しますが、その中で伊手の口沢から物見山(種山)方面に向かうには、鴬峠から古歌集の奥の古道(昔の峠道)を上って、姥石峠へ抜ける経路が最も近道といわれます。口沢〜鴬峠〜古歌輩(古道)〜姥石峠〜物見山という順路ですが、賢治一行も大正6年9月3日の早朝から昼にかけて、そのコースを辿った可能性が高いと思われます。


栗木沢の精錬所全景

盛街道と栗木鉄山

盛街道は、現在の県道8号線に当ります。人首町を起点とした場合、二股〜木細工〜重王堂〜姥石〜住田〜大船渡(盛町)という道順ですが、現在は国道397号線との接続から路線変更となりました。そのため、本来の重王堂から姥石に通じる盛街道(県道=葛折りの峠道)は、すっかり寂れてしまいましたが、実はこの盛街道の全線開通(特に重王堂〜姥石間)は、山間部の鉱山事業と、密接な関係にあったという逸話が地元には残っております。


第一次大戦が勃発し、日本が参戦したのは大正3年8月でした。その後大正8年6月に終結しましたが、軍需産業の拡大に伴って、江刺の鉱山地帯もその影響を受け、例えば伊手の黄金坪鉱山では、大正6年7月にタングステンが発見されています。


またこの鉱山は、モリブデン鉱床発見の可能性のある場所としてもあげられていますが、このようにこの区域には、新たな資源を求めて、重点的に官民の調査の手が入った形跡があります。その中で最も早くから、その時代状況に即応するかのように、採掘し始めていたのが「栗木鉄山」でした。


栗本鉄山は、その昔「人首鉄山」とも言いましたが、明治43年に創設し、その採鉱口と事務所が重王堂にありました。しかし精錬所が、世田米の栗木沢にあったことから、それで栗本鉄山と称し、本社事務所もそちらに置いたのでした。栗本鉄山が隆盛を極めたのは、大正2年から大正9年です。


もちろんそれは第一次大戦の鉄の需要に伴ってのことですが、生産高は国内の民営における釜石、仙人峠に続いての三番目に位置し、全盛期の労働者は約二千人といわれます。米里の大野・火石周辺から、延長約9キロの鉄索を栗木沢にまで延ばし、その中継地点が姥石でした。


この事業は県南四郡の中では最大規模で、盛街道は精錬した鉄を水沢駅に運ぶための荷馬車や、鉱山関係者で大変賑わったということです。最も生産量の多いのは大正5〜7年ですので、それはちょうど賢治の訪れた大正6年の時期と重なるのです。


二股の旧盛街道への入り口 (左側の標柱に「火の神・妙祇山神社」とある)

旧盛街道と山本

近世の盛街道は、水沢を起点として岩谷堂〜人首町〜二股〜山本〜種山ケ原を経て、物見山の山頂を迂回し、大船渡の盛町まで至る経路です。全長79.5キロで、人首の二股から左折し山本を通って行くわけですが、そこには二股番所跡があり、また山本と種山ケ原には、それぞれ七里塚(一里塚)がありますので、交通の要衝だったことがわかります。


この道筋を、地元では「旧盛街道」と呼んでいるのですが、古くから旅人の往来が多くあり、その頃の山本は種山越えの休息地として、あるいは仮宿まであったともいわれ、今も道端にたたずむ古碑や史跡が、その名残りを伝えています。


童話「種山ケ原」に登場する「上の野原]は、種山ケ原がモデルで、主人公の達二少年の家のあるところが、麓の山本といわれます。同書「種山ケ原」中に、「達二はあの奇麗な泉まで来ました。まっ白の石灰岩から、ごぼごぼ冷たい水を噴き出すあの泉です。」とありますが、実は山本も石灰岩層地帯に属し、湧き水(泉)の多いところです。


実際に山本から種山ケ原へ上る途中に、そういう「泉」が本当にあったと伝えられています。さらに「その旅人と云っても、馬を扱う人の外は、薬屋か林務官、化石を探す学生、測量師など、ほんの僅かなものでした。」という情景からは、一方の繁栄した盛街道よりも、旧盛街道の閑散としたイメージが強く感じられます。


また賢治が、種山ケ原から人首町へ向かうとすれば、山本から二股への旧盛街道がより近道となります。米里郵便局からの葉書の消印が、大正6年9月3日の午後3時から6時ですので、物見山周辺で道に迷ったとしても、時間的問題を考慮に入れれば、このコースが最も適するのではないかと思います。


山本の「火の神」とモリブデン鉱※

賢治は、モリブデン鉱床発見の可能性のある場所として、英文メモで江刺郡の「日の神付近・市の通付近・阿原峠の北麓」をあげています。その中で「阿原峠の北麓」は、伊手の黄金坪鉱山とされ、また「日の神付近」は梁川と推定されています。確かに梁川の町場近くにその地名がありますが、しかしそれはあくまで「Hinokami」から推測されたもので断定はできず、また梁川自体、昔から鉱物資源とはほとんど無縁といって良い土地柄なのです。


それに対し山本は、黄金坪鉱山や栗木鉄山とは近隣で、仮に第一次大戦に伴って調査区域の対象に入ったり、あるいは賢治が調査の途に訪れたとしても、何ら不思議ではありません。実はこの山本に「妙祇山」という、慶長年間から続く古い神社かありますが、地元ではそれを通称「火の神」と呼び、またそれは周辺一帯の代名詞のようにもなっています。旧盛街道沿いで、種山ケ原(「風の又三郎」の「上の野原」のモデル)の麓にも位置し、賢治のその英文メモは、本当はここを指しているのではないかと思われます。


旧米里郵便局と人首のお医者さん

旧米里郵便局は、現米里郵便局から岩谷堂方向へ約200メートル下手にあり、現在は私有地になっておりますが、その周辺は昔から様々な職業の人や、商店が軒を並べていました。中には戦後も引き続き、人首川で「砂金取り」をしていた人の家もあります。

(左)大正6年大津麟平岩手県知事来村記念写真。看板に「知事閣下御来館」とあります。
(中)大正9年9月3日に賢治が葉書を投函した郵便局。
(右)賢治が旧米里郵便局から出したハガキ(「人首ニテ」とあります)。

賢治が出した葉書の消印は、大正六年九月三日の午後三時〜六時ですので、間違いなく彼はその時間帯に人首町を訪れ、米里郵便局に投函したことがわかります。


また賢治が人首町で接触した可能性のある人物は、三人おります。その中の一人が「人首のお医者さん」です。友人佐々木又治宛(大正7年4月18日付)の手紙中で触れられていますが、当時人首にお医者さんは一人だけでした。


そこはちょうど菊慶旅館を真中に挟んで、旧米里郵便局から約500メートルほど離れたところの「角南医院」です。現在は建物も無くなり、土地の所有者もかわっていますが、庭に囲まれた古いたたずまいで、母屋の一室が診察室になっていました。医師の名前は「角南恂(すなみまこと)」で、この時賢治は21才で、角南医師は37才でした。



続く・・・


参考

モリブデン鉱※

1. モリブデン鉱の種類

モリブデン鉱の主要な鉱石は次ぎのものであります。

(a) 輝水鉛鉱(molybdenite, MoS2)(硫化モリブデン)
(b) モリブデン鉛鉱(wulfenite, PbMoO4)(モリブデン酸鉛)

モリブデンは元素鉱物としては存在せず、他の元素と結合して存在します。鉱石鉱物としては上記鉱物の他に、パウエライト(Ca(Mo,W)O4)、鉄水鉛鉱 (Fe2(MoO4)3・nH2O) などが存在しているが、現在採掘されているのは輝水鉛鉱からなる鉱石であります。

2. モリブデン(Mo:moiybdenum)の moiybdenum)の特性値と概要

・陽子数:42 ・価電子数:- ・原子量:95.94 ・融 点:2617℃ ・沸 点:4612℃
・密 度:10.22 ・存在度(地球):1000ppm

モリブデンは人体にとって必須元素で、尿酸の生成、造血作用、体内の銅の排泄などに関わります。モリブデンを添加したステンレス鋼は航空機やロケットのエンジンなどに使用されている。モリブデンは産業上重要性が高い金属であるため、万一の国際情勢の急変に対する安全保障策として国内消費量の最低60日分を国家備蓄すると定められています。

3. 産地

モリブデン鉱石の鉱床型は斑岩鉱床、スカルン鉱床、石英脈鉱床、ペグマタイト鉱床、堆積鉱床などがあるが、生産量の多くは斑岩鉱床からであります。また埋蔵量も南北アメリカ大陸のコルディラ山系中の鉱床が多い。また、コーカサス東部、中国、モロッコなどでは、花崗岩質貫入岩と石灰岩の接触により形成されたスカルン鉱床から採掘される輝鉛水鉱は一般に灰重石や銅の硫化物とともに産出しています。

モリブデン鉱石の品位はモリブデンを主体に採掘している鉱山では 0.2~0.5%MoS2で、銅鉱の副産物として回収している場合には0.02~0.08%MoS2程度であります。
このように輝水鉛鉱の含有量は微量であるが、浮遊選鉱法による濃集が効果的で、採算がとれています。

モリブデンの世界の埋蔵量は約 860 万トン(純分)と推定されており、国別の埋蔵量は中国(38%)、アメリカ(21%)、チリー(13%)、カナダ(5.2%)、ロシア(2.8%)、アルメニア(2.3%)であります。

モリブデン鉱石の 2007 年における世界の生産量は約 18 万 7 千トンである。国別の生産量はアメリカ(32%)、中国(25%)、チリー(22%)、ペルー(9.4%)、カナダ(4.3%)、ロシア(1.7%)であります。

日本においては、輝水鉛鉱を含む石英脈鉱床が存在し、島根県の小馬木鉱山、東山鉱山、岐阜県の平瀬鉱山が採掘していたが、現在はすべて休山状態になっています。 



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使



協力(順不同・敬称略)

東海新報社
気仙伝統文化活性化委員会
〒022-0002 岩手県大船渡市大船渡町鷹頭9−1 電話: 0192-27-1000

賢治街道を歩く会 電話: 080-5225-2524 

公益財団法人 岩手県観光協会
〒020-0045 盛岡市盛岡駅西通二丁目9番1号(マリオス3F) 電話:019-651-0626

日原もとこ(色紐子 いろひもこ)
東北芸術工科大学 名誉教授 風土・色彩文化研究所 主宰  まんだら塾塾長

文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111

国立研究開発法人 量子科学技術研究開発機構(モリブデン鉱)
〒263-8555 千葉県千葉市稲毛区穴川4丁目9番1号 Tel : 043-206-3026



※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。 

ZIPANG-4 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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