黄金の国ジパング『ケセン』
黄金の国ケセンとは
平泉黄金文化を支えた金の産出地としては、本吉、東磐井、気仙、江刺、遠野が知られています。伊達藩時代の気仙四大金山は「玉山、雪沢、今出山、坂本沢」で苦しい藩財政を支えました。中でも玉山金山は金の産出量の多さから「玉千軒」「千人坑」などの言葉を生み、『東方見聞録』のジパングに記された金山もここを指すとの説もあります。
中尊寺 光り輝く「金色堂」
中尊寺 金色堂新覆堂
奥州藤原氏の初代清衡が12世紀始めから四半世紀をかけて造営した寺院です。境内には、金色堂、金色堂覆堂、経蔵等の国宝及び重要文化財があり、鎮護国家大伽藍一区跡等、境内の全域が特別史跡に指定されています。金色堂は、境内北西側に位置する阿弥陀堂建築の霊廟で、藤原氏4代の遺体及び首級が安置されており、平泉の政治・行政のみならず、精神的な拠り所にもなっています。
中尊寺の中心「本堂」。比叡山延暦寺からの分火「不滅の法灯」が灯ります
中尊寺 紅葉を背景にした「峯薬師堂」
中尊寺 冬、雪に覆われた「中尊寺経蔵」
中尊寺 趣のある山門
世界遺産
世界遺産登録年:2011年
平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群
平泉は、11世紀~12世紀の日本列島北部領域において、仏教に基づく理想世界の実現を目指して造営された政治・行政上の拠点です。
その拠点に存在する4つの庭園は、奥州藤原氏により、現世における仏国土(浄土)の象徴的な表現、つまり池泉・樹林・金鶏山頂と関連して仏堂を周到に配置することにより実体化した理想郷の光景として造営されました。
4つの庭園のうち3つは、神聖な山である「金鶏山」に焦点を合わせており、浄土思想の理想と、庭園・水・周辺景観の結びつきに関する日本古来の概念との融合を例証しています。また、浄土庭園のうち2つは、発掘調査により発見された多くの詳細事項に基づき復元されたものであり、他の2つは現在も地下に埋蔵されたまま残されています。
さらに、重厚に金箔を貼った中尊寺の仏堂は、12世紀から残る唯一のものであり、奥州藤原氏の巨大な富を反映しています。
毛越寺「浄土庭園」国指定特別史跡及び特別名勝
毛越寺(もうつうじ)
2代基衡が12世紀中頃に造営した寺院の跡です。境内には、特別史跡及び特別名勝に指定されている浄土庭園と、それらの構成要素である常行堂が含まれています。また、常行堂で行われる常行三味の修法と「延年」の舞は、12世紀における浄土思想の一端を示すものであります。
このかつての巨大な政治・行政上の拠点に存在し、浄土庭園、12世紀から残存する顕著な仏堂、神聖なる金鶏山との関係を伴う4つの寺院仏堂の複合体は、平泉の財力を反映する類い希なる集合であり、日本の他の都市の仏堂や庭園にも影響を与えた計画・庭園の意匠設計に関する概念を表しています。
郷土芸能
気仙は郷土芸能が盛んな地域でもあります。獅子踊りや剣舞、虎舞、権現舞、七福神、神楽、田植え踊り、太鼓など実に多彩です。一説には「1つの行政区に、必ず何かしらの郷土芸能が伝わっている」とも言われます。
国指定 重要無形民俗文化財 鬼剣舞
宮沢賢治も感銘を受けた 鬼剣舞【おにけんばい】
岩手県から宮城県にかけて分布する剣舞【けんばい】は東北地方の代表的な民俗芸能の一つであり、なかでも忿怒【ふんぬ】の形相の仮面を掛けて踊る剣舞は、鬼剣舞【おにけんばい】の名称でよく知られています。
ほかに阿弥陀堂の作り物を載せた大きな笠をかぶった笠振りが登場する大念仏などいくつかの形態のものがあります。
これは主として盆に新仏の家や墓、寺などで踊られてきたものであり、念仏歌とともに踊られる亡魂鎮送を目的とした念仏踊の一種です。
また踊り手が鬼と形容される異相の態をしたり、極楽浄土を眼前に見せるような作り物が登場するなど独特の形に意匠を凝らした風流【ふりゆう】の芸能であります。
今回取り上げるのは、岩手県の中・南部に分布する鬼剣舞です。
鬼剣舞は念仏剣舞とも称されるように衆生済度【しゆじようさいど】の念仏思想の影響を受けていることが解かりますが、剣舞の語義はそれに限られるものではありません。
悪霊を踏み鎮める呪法の手として宗教史や芸能史研究において注目されてきた反閇【へんばい】がこれに関係しているのではないかとの説があり、また、芸能の徒が招宴の座敷で盃のやりとりをする時の献盃からきたものとする説もあります。
この鬼剣舞の由来については菅江真澄氏の『ひなの一ふし』、『かすむ駒形』に記されていること、また近年発見された岩崎剣舞の「念仏剣舞伝」の年号などから確かな文献資料としては江戸時代十八世紀に行われていたことを示すものしか見出されていませんが、各所に伝わる巻物伝書類の記録などにはそれ以上に時代を遡【さかのぼ】るものもあるのです。
踊りの内容は、鶏羽や馬の尻尾で作ったシャグマ状の毛を頭にいただき、忿怒面を掛けたイカモノ八名程度、カッカタ、あるいはサルコなどと称される者等の踊り手が、太鼓、笛、鉦【かね】の囃子方などとともに列をなして踊り場に入場し、楽器の演奏、念仏歌を背に、扇、アヤ竹(金剛杖などと称する所もあり)、刀の採り物を様々に駆使しながら踊ります。
演目は「一番庭」、「大念仏」などと称す一同全員が踊るもの、「一人イカモノ」、「三人イカモノ」などの少人数で踊るもの、「膳【へき】の舞【まい】」、「宙返り」、「ガニムグリ」などのアクロバティックな演技を見せる余興的なものなど多様です。
また伝承地によって曲目、名称、演じ方などにそれぞれ特徴があり、今回代表的なものとして取り上げた四地区の場合、次のような違いがありです。
川西念仏剣舞の場合、亡魂済度の色合いの濃い演出をとっています。
この剣舞は毎年八月二十四日の中尊寺本堂前の施餓鬼に行われており、「大念仏」の演目の終末部でサルコが亡魂を表すイカモノたちを一人一人念仏の功力によって成仏させる演技を見せます。
朴ノ木沢剣舞にも「大念仏」の演目がありますが、こちらでは讃め歌が歌われるのみでです。一方、和賀地方の鬼剣舞にはこの色合いが薄くなっており、こちらの方では余興の曲芸的な演目が盛んであります。
岩崎剣舞は当地方鬼剣舞の元祖的存在であり、滑田剣舞はこの岩崎剣舞の指導を受けたものでありますが、岩崎にはない神楽系の演目をもっています。
鬼剣舞の踊り振りは極めて勇壮で力強い。踊り手はたえず気魄【きはく】をこめて頭部を律動し続け、また手足を様々に動作し続けるが、これは柔軟な腰の動作によって支えられているのであります。この手の込んだ巧みな踊り振りは他の同種の風流の念仏踊の追随を許さぬものであり、そのダイナミックな動作の群舞は代表的な民俗芸能の一つとして評価を得ています。
鬼剣舞は芸能の変遷の過程や地域的特色を示す特に重要な民俗芸能であるといえます。
宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅱ
種山ヶ原 宮澤賢治『風の又三郎』碑
種山ヶ原 森林公園 スプリングエフェメラル (春植物)…カタクリ
宮沢賢治投宿の「菊慶旅館」
菊慶旅館のあった場所は新町と呼ばれ、明和3年(1766)に六軒から始まった町並みと伝えられています。旅館名が変わってから、四代続いていましたが、東日本大震災後、止む無く廃業をしましたが、建物は残し公開していました。しかし、大変残念ながら維持管理の問題から、2018年8月解体されたのでした。
人首町 菊慶旅館周辺地図
人首町 菊慶旅館 大津県知事ご一行
明治後期から大正〜昭和にかけて最も繁盛し、時の大津県知事が十数人の随行者と共に投宿するほどの老舗旅館だったのです。
菊慶旅館が有用されたのは、馬繋場が隣接していたことです。岩谷堂でも馬まで連れて泊まれる旅館はなく、特に南部方面の人々から、大変重要視されたといいます。二つの主要街道を抱え、その分岐点としての位置から、必要不可欠な存在だったのでしょう。
賢治の大正6年9月3日の投宿については、同行者の誰かが体調を崩したと思われ、また岩谷堂へは乗合馬車は一往復だけで、葉書投函の時間帯からすれば、岩谷堂へ戻れる可能性はなくなります。むしろ賢治らは、投宿せざるを得ない状況に置かれたのではなかったかと思います。その後の、賢治一行の足取りは不明ですが、調査の予定日数はまだ3〜4日は確実に残していますので、おそらく休養をとった後に、再度種山ケ原や五輪峠方面に向かったのではないかと思います。
五輪峠と五輪塔
大正13年3月24日付の詩「五輪峠」から想像される風景や道筋は、現在もところどころ残っており追体験できる場所として再認識させられます。賢治はその日、岩手軽便鉄道の鱒沢駅から鮎貝〜切伏〜五輪峠の行程を、おそらく年下の知人(上大内沢居住者の可能性あり)と共に、またはその彼の案内で、上大内沢を経て人首町方面へ向かったことが推測されます。
五輪峠「五輪塔」
峠の頂上付近は、昭和31年の開通工事で様変わりしていますが、現在の五輪塔の位置は、本来は反対の人首側にあり、かなり小さめで、おそらくそれが賢治の目に映った「しょんぼりと立つ」五輪塔ではなかったかと思います。
その由来は約350年前、人首の五輪街道筋の上大内沢にいた、千葉日向という侍が、父(上野)の菩提を弔うために建立したものです。五輪峠には、様々な歴史が潜んでいます。近世には幾つもの戦いがあり、その度に多くの血が流されたといいますが、この峠にまつわる逸話は、暗く悲劇性の濃い話ばかりです。
五輪峠
五輪街道と上大内沢
五輪街道は、賢治の歩いた江刺の街道の中で、最も当時の景観を残している道筋です。藩制時代には「上大内沢番所」があり、明治中期頃までは遠野と江刺を結ぶ唯一の街道で、常に旅人の往来が盛んだったといいます。
この街道に陰りが見えたのは、明治30年の花巻〜釜石間の県道開通以後で、さらに決定的となったのは大正2年の岩手軽便鉄道でした。しかしその後、大きな道路工事も無いことから、逆にそれが幸いし、当時の状態が保たれたのでしょう。
また北新田を過ぎて上大内沢に入ると、数軒の民家が密集して現れますが、そこはちょうど山手側からの清流と街道が交差する地点で、地元では「馬洗淵」(まりゃぶち)と呼んでいます。五輪越えを終えた馬喰達が、休息を兼ね馬を洗ったのが由来といいます。
詩「丘陵地を過ぎる」の「丘陵地」は北新田を指し、詩中の「水がごろごろ鳴っている/さあ犬が吠えだしたぞ」は、その「馬洗淵」周辺を表しているように思います。
詩「人首町」と「下書稿」
詩「人首町」には、「下書稿」の(一)と(二)があります。それには実際に現地を訪れ、その時間帯を体験しなければ表せない事柄が、幾つも記されています。
例えば「けさうつくしく凍っていて」「遠い馬橇の鈴」ですが、三月末の人首町は未だ冬の寒さが残り、また材木を積んだ馬橇の鈴の音の響きは、山村ならではの冬の風物詩です。
賢治の視線は、町の下手から五輪峠方向に注がれております。「丘には杉の杜もあれば/赤い小さな鳥居もある」は、その右方向にある久須師神社の建つ「壇ケ岡」です。
さらに「林務官・行商人・税務署の濁密係」が登場しますが、つまり彼らは、菊慶旅館前の「バス停留所」に向かうため、家々の間から道路に飛び出すように現れたのでしょう。大正13年は乗合バスが運行していますので、賢治もそれを待っていて、それらの光景に出会ったのだと思います。
菊井小兵衛と中学校のテニスの選手
「下書稿(一)」に、「甲地九兵衛」という人物が現れますが、「下書稿(二)」では「菊井小兵衛」の名に改められています。ところが、それと良く似た名前で「菊田久兵衛」という人が、菊慶旅館の二軒東隣に住み、当時からずっと豆腐店を営んでおりました。この時彼は21才ですが、彼がモデルになった可能性が高く、朝早くから働く姿が、賢治の目にとまったのかも知れません。あるいは賢治が、直接店先を訪ねたことも考えられるでしょう。
また同じく「下書稿(一)」の中に、「中学校のテニスの[選手→主将]」が登場しますが、ちょうどこの頃に「テニス兄弟」と呼ばれ、盛岡中学と盛岡商業でそれぞれ活躍したという佐賀兄弟がおります。ただしこの場合は、年齢的にも明治41年生まれで盛岡中学在学の兄の佐賀愛二が該当するように思います。バス停留所に向かって、ラケットを手に歩いてくる彼の姿が、賢治の目に印象的に映り、声をかけたりしたのかもしれません。
人首町 ハリストス正教会堂跡
二つの教会
人首町の上下に、ハリストス正教会(ロシア正教)とカトリック教会の「二つの教会]が出現したのは、明治初期から中期にかけてのことでした。ハリストス正教会が発足したのは明治十四年ですが、ところがそれ以前の明治元年に、坂本龍馬のいとこの「沢辺琢磨」がその護送途中に、「人首番所」で役人を相手に教えを説いているのです。それが本州で最初の説教となっているのですが、その後人首町に教会堂が建設されたのは明治23年でした。
一方のカトリック教会の設立は明治17年で、教会堂は盛岡の四家教会に次いで二番目の建物です。その頃は一日に三度、二つの教会堂の鐘の音が、村全体に鳴り響いたといいます。おそらく賢治もそれを耳にしたと思いますが、信者数は多い時で300名を越し、また当時の写真からもわかるように、一際目につくのが「ハリストス正教会堂」です。それも間違いなく賢治の目に映っていた筈です。(ハリストス正教会堂は、残念ながら昭和八年の町の大火で焼失しております。)
明治39年には、河東碧梧桐が、遠野に行く途中に足を休め
「人首(ひとくび)と書いて何と讀む寒さかな」
と詠んでいます。また大正9年には、柳田国男が三陸海岸北上の旅行の際、佐々木喜善の配慮で人首に立ち寄り、村役場を訪ねていますが、喜善の『江刺郡昔話』(大正11年発行)は、人首出身の浅倉利蔵から聞いた話が主となっているのです。
宮沢賢治が人首に足を踏み入れたのは、そんな状況の中でした。賢治は二度、人首を訪れていますが、一度目は大正6年9月3日の江刺郡の地質調査の途で、二度目は大正13年3月24日(〜25日)のことでした・・・
付記
最後になりましたが、この度ご協力いただきました人首町「賢治街道を歩く会」の活動の一端についてご紹介いたします。
蓮華つつじ・野芝を守る会(「賢治の森」で)
平成26年9月4日(木)
9月4日(木)今年2回目の「蓮華つつじ・野芝を守る」活動を実施しました。今回は11名が参加。
9月7日(土)には星座の森で結婚式があるとか。若い人達がわいわいと賑やかに準備をしていました。
写真(左)忙しい中参加してくれた守る会会員
写真(中)東菊群生の野原。この野芝が昔は向こうの物見山まであったそうです。
来年が楽しみです。
写真(右)立石の後ろには去年山葡萄が実っていたのに、
今年はほとんどありませんでした。ただ、唐グミがいっぱい実っていました。
「牧歌」の詩碑
今日は正にこの詩のように、霧がかかってまわりが見えなくなりました。
賢治は種山ヶ原の気象をよく観察していたんだなと感じました。
「牧歌」 宮沢賢治
種山ヶ原の 雲の中で 刈った草は
どごさが置いだが 忘れだ 雨ぁふる
種山ヶ原の せ高の芒あざみ
刈ってで置ぎわすれで雨ぁふる 雨ぁふる
種山ヶ原の 霧の中で刈った草さ
わすれ草も入ったが 忘れだ 雨ぁふる
種山ヶ原の 置ぎ忘れの草のたばは
どごがの長嶺で ねれでる ぬれでる
種山ヶ原の 長嶺さ置いだ草は
雲に持ってがれで 無ぐなる 無ぐなる
種山ヶ原の 長嶺の上の雲を
ぼっかげで見れば 無ぐなる 無ぐなる
日本の精神文化と国土の美しさについて再発見
大船渡市の【文化的景観】
碁石海岸+穴通磯のご案内
奇島・怪岸が造形美を競う景勝地
碁石海岸は、三陸海岸を代表する景勝地の一つ。海食現象にともなう奇島・怪岸が多く、ユニークでダイナミックな造形美を競っています。昭和30年(1955年)、国立公園に指定(現在の名称は三陸復興国立公園)。
「碁石八勝」と名付けられた8カ所の見所の中でも、岩に3つの穴があき、そのトンネルを小舟が行き交う「穴通磯」が有名。岩手県大船渡市末崎町
編集後記
岩手県には手探り状態で、一旦着手してはみたものの、いや〜驚くことばかり・・・特にその風土性や歴史的な意味では、これ迄表層に現れない部分がぎっしり詰まっていて、何から着手すべきか…戸惑うことのみぞ多かりきでした。
しかし多分、これからの次世代では岩手県ばかりでなく、国民的関心はその他の東北六県や北陸地方、そして是迄辺境の地とされていた、もう一つの日本の魂が隠れている土地にも拡がっていくのだと思います。
何故ならば、内閣府によれば※、今、日本は少子高齢化で急激な人口減の様相を辿る中、大都市への集中化で最悪の場合、2050年には世界で最貧国となる等の予測もあり、行き詰っているのです。そのとどのつまりの答えが・・・地方分散型、多極型都市づくりだそうです。
「今更、遅いよ…」と言いたいナ〜 (苦笑)ハイ…一庶民の浅ましさ…犬?(鎹八咫烏)の遠吠えです。 これ程広い国土を持ち、地方には多くの深い歴史文化、人材、資源を有しながら、放置、又は無視し続けてきた1500年間にも及ぶツケが一気に襲ってくるのでは…?
明治時代以前は表日本とされた日本海側、特にアジア諸国との交易が盛んだった北陸地方の歴史や文化に日本のアイデンティティを探る視点が強まる気がしてなりません。明治維新から続く、西洋崇拝から目に見えない日本の精神構造の原点 (土地神様) に還俗すべきなのでは… 次号以降にはポストコロナの目指すべきイーハトーブ!(言わば理想郷)を描いた岩手のお宝的存在「花巻と宮沢賢治」編をご案内致したく…
※現日本の全人口1億2600万人は、2050年には8000万人台に突入。 (うち4割の3000万人以上が65歳以上の高齢者)。 反対に、現役世代は4000万人余になる。
参考
ZIPANG TOKIO 2020「吾朝無双 【毛越寺】広々とした苑地美観が展開 その起こりは薬師如来の化身 白鹿 ~世界文化遺産~(その壱)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2849489
ZIPANG TOKIO 2020「時を超えて今なお800年昔の姿のままに伝えられている国重要無形民俗文化財『延年の舞』そして、謎に満ちた神仏『刀八毘沙門天』毛越寺にて公開(その弐)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2853577/
ZIPANG-2 TOKIO 2020「山の向こうのもう一つの日本【寄稿文】日原もとこ」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4539875/
ZIPANG-4 TOKIO 2020 「風流踊(ふりゅうおどり)」ユネスコ無形文化遺産提案へ!(1)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7932833/
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~創る・繋つながる・伝える~ 速報「平成30年度全国高校生伝統文化フェスティバル-伝統芸能選抜公演-」の開催について
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5377000/
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
東海新報社
気仙伝統文化活性化委員会
〒022-0002 岩手県大船渡市大船渡町鷹頭9−1 電話: 0192-27-1000
賢治街道を歩く会 電話: 080-5225-2524
公益財団法人 岩手県観光協会
〒020-0045 盛岡市盛岡駅西通二丁目9番1号(マリオス3F) 電話:019-651-0626
一般社団法人東北観光推進機構
〒980-0811 仙台市青葉区一番町2-2-13 仙建ビル8階 TEL 022-721-1291
日原もとこ(色紐子 いろひもこ) 東北芸術工科大学 名誉教授
風土・色彩文化研究所 主宰 まんだら塾塾長 えみし学会会員
天台宗別格本山 毛越寺
〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢58 TEL:0191-46-2331
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
0コメント