~~~✜✜✜~~~
いま世界的に新型コロナパンデミックの真っ只中ですが、日本ではこれに追討ちをかけるように、7月初旬には「令和2年集中豪雨」と命名された災害で熊本県や岐阜県において沢山の方々が犠牲者となられ、大きな被害を蒙ったばかりです。 この度は9年前の東日本大震災において未だ復興途上にある三陸地域のニュースをお届けするに当たり、改めて犠牲となられたすべての方々へ謹んで哀悼の意を捧げるものです。
合掌
編集局記
~~~✜✜✜~~~
小岩井農場 牛放牧のようすです。 深い緑の牧草は、さぞかし美味しいことでしょう~
自然が、真白なカンヴァスに樹氷を描く時…瞳を閉じると岩手山が現れる・・・
森で雪を溶かして真っ先に出てくる不思議植物ザゼンソウ。いよいよ小岩井農場に春の散策シーズン到来です!
岩手山 山麓
果てしなき荒野を眺め、驚天動地の夢を描いた巨人がいた ‼
前回の記事で初めて紹介された小岩井農場ですが、実に見事なスケール感をもった画像群には圧倒されましたね〜。 見れば見るほどに日本的な物差しからはみ出た豪壮な大自然、その美しさ ‼
しかし、最も感動したのは、それらが明治の中期、岩手山南麓に拡がる殺伐たる火山系の荒野をひと目見て、これを是非、開拓して農場を創ろうではないかと話を持ち掛けた御仁がいたことです。
新橋横浜間鉄道之図(しんばしよこはまかんてつどうのず)
明治5(1872)年5月の品川横浜間仮開業にはじまり、鉄道網は、産業の発展と深くかかわりながら、整備されていきます。
明治5年の我が国最初の鉄道開設に際して作成されたと推定される、新橋横浜間の鉄道路線図です。明治5年5月7日、品川・横浜(現在の桜木町)間に我が国はじめての鉄道が仮開業され、次いで工事が遅れていた新橋・品川間も同年7月25日に路線敷設が完了し、9月12日に新橋・横浜間の鉄道が本開業されました。同駅間は当時29キロメートル、所要時間は、ノンストップで53分でした。この図面は新橋、横浜間の鉄道路線図です。
作成した機関、年月日は不明ですが、恐らく鉄道を所管した工部省が仮開業前後に作成し、太政官に提出したものと思われます。 本図の含まれる「公文附属の図」は、平成10年「公文録」とともに、国の重要文化財に指定されました。 原図サイズ:東西193.2×南北38.6cm。国立公文書館 蔵
明治5年5月 鉄道開業新橋~横浜 錦絵
その人、井上勝氏(1843~1910)とは明治政府の鉄道庁(当時は鉄道局)長官でした。
そして、ご存知 「鉄道の日」とは1872年10月14日に日本初の新橋ー横浜間を結んだ日本初の鉄道が開業した日のこと。その生みの親が「鉄道の父」こと井上勝氏です。
近代日本の礎となった長州ファイブの一人で、“鉄道の父”と称される井上勝の銅像「井上勝 志気像」が、平成28年10月に萩駅舎前に建立されました。
銅像は、イギリス留学中に撮影された、スコップに足をかけたシャツ姿の写真をモチーフに制作されています。銅像本体の高さは約1.8m(台座を含めて約3m)。
彼は長州五傑の1人でもあり、その銅像はいま、東京駅丸の内側と、故郷の萩駅前に建てられています。
この奇想天外な話。もしもそんな話が可能ならば、とっくに弥生時代からのお百姓プロ達が放っておく筈がありません。つまり…はなからお手上げの法螺吹き噺だったからです。
何故って、それには莫大な財力と、先進的な科学知識、高度な技術力、国や地方の支援体制他、諸々の条件をクリァーする必要があるのです。
左から「小野義眞」 「岩崎弥之助」 「井上勝」
ところが、このアイデアにすぐさま、呼応した方々が居たから堪りません。これって凄い噺ですよね〜 ‼
"三人寄れば文殊の知恵" と申しますが、何と幕末〜明治維新の志士てもある土佐藩の小野義真、同藩、岩崎弥之助、長州藩の井上勝というビッグトリオでした。
この 小岩井と名付けられた農場名は上記三氏の頭文字を組合せた合成語だそうで、語呂もよく、簡単に覚え易いところが特に良いですね。
それよりも、この明治維新という背景が人々をハイテンションに導いたことは確かなことですが、何と言ってもこのビッグトリオ夫々のバックボーンがまた物凄いのです。
この大構想を発案したのが井上 勝氏。幕末までは長州藩士でした。彼は伊藤博文や井上馨等と共に命がけで密航し、英国で鉱山技術や鉄道技術を学び、帰国後は、明治政府の鉄道庁長官となり、東海道本線や東北本線の敷設等、旧国鉄の路線を次々と増設しました。
その井上案に早速協力したのが、小野義眞氏(1839~1905) は日本鉄道会社副社長。藩政時代は土佐藩士で、郷里の大庄屋でした。
残るお一人、岩崎彌之介氏(1851~1908)は土佐藩士・岩崎彌太郎実弟です。
明治18年、彌太郎没後、三菱の第二代社長を継ぎ、海運・鉱山・炭鉱・造船・金融・不動産など三菱事業の多角化を図り、第四代日銀総裁も勤めました。
このとてつもない話は井上氏の英国留学や国内各現場に飛び、学んだ専門知識に科学的知識や技術力が自信となり、それを存分に活かし貢献した方です。
また、小野氏は三菱会社を背負って同じ日本鉄道幹部として参画しているので、そのバックアップ体制は万全です。
一番お若い岩崎氏はこの計画に賛同して出資したのでした。
ざっと見積もっただけでも "鬼に金棒" とはこの事ですね〜
ところで、この小岩井農場の総面積とは如何なるものか?気になりますよね〜?調べてみると…何でも3,000ヘクタールだとか…
小岩井農場 全体 航空写真(白線内) まあ~なんと広大なこと・・・
最近は大きさの比較対象として引っ張りだされるのが東京ドームです。こちらは面積:4万6,755平方メートルだそうで…滅法数字に弱い私の頭で計算すると… 東京ドーム約638個分の広さですって?ホント?間違っていたらゴメンナサイ!
※1ヘクタール = 10,000.平方m です。
宮沢賢治 のふるさと原風景とは?
そしてイーハートーブとは?
ここではね、子供や大人や…毎日色々な人たちに会えるんだ~楽しいね!
さてさて、宮沢賢治氏は生まれながらにして、このスケールアウトした広さを持つ小岩井農場のそばで育ったのです。思いますに、幼児期からの生育環境が人の感性にどれ程の影響を及ぼすものか?甚だ興味深いものがあります。
6月、雨の日はモリアオガエルが元気です!
特に、人工林だと言っても土地改良の結果、120年も経った今、理想的な大地に変身を遂げているのてすね?
第一、オオタカ、ハヤブサ、フクロウといった猛禽類、ツキノワグマを頂点とする多様な生態系が存在する事自体、想像するだけでも、実に滋味豊かな自然林そのものではないでしょうか?
小岩井農場の掲げるモットーが有りました。曰く……
~人のちから、自然のちから~
当に自然共生社会を謳ってます。
これぞイーハートーブの原点かも知れません。
宮沢賢治はこれがあったればこそ、泉のごとく湧き溢れた多彩な感性を磨き上げたに違いありません。それを背景にしたイメージの物語が更なるイメージを呼び起こし……
37歳でこの世を去ってしまいますが、その残されたメッセージとは、人によっても年を経てもも異なって見える・・・新しい何かがみえてくる言葉の万華鏡!
神様が彼に託されたこの世への役割だったのですね〜
いま、私達が迎えた世界的なパンデミック・時代の大転換期に当って、人々に古くて、新しい本物の価値観を自ら発見する役割を小岩井農場は担ってるのかも知れない。
小岩井農場 羊放牧のようすです。
羊さんは、こちらを見つめご挨拶「お待ちしていますよ、早く来てね~ GO to KOIWAI ❢」
行って見よう!空から微笑んでる賢治に逢いに・・・大自然に放たれた牛や羊や山羊たちが待ってる小岩井農場へ。
新しい自分探しに、
そして自分のためのイーハートーブを見つけるために・・・
【寄稿文】日原もとこ
東北芸術工科大学 名誉教授
風土・色彩文化研究所 主宰 えみし学会会員 まんだら塾塾長
協力(順不同・敬称略)
小岩井農牧株式会社
〒020-0507 岩手県岩手郡雫石町丸谷地36番地1 TEL:019-692-6027
一般社団法人萩市観光協会 〒758-0061 山口県萩市椿3537-3 Tel 0838-25-1750
独立行政法人 国立公文書館
〒102-0091 東京都千代田区北の丸公園3番2号 電話:03-3214-0621(代表)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
0コメント