ZIPANG-4 TOKIO 2020小岩井農場のリビングヘリテージ(生きている文化財)と文化財保護法について(その5)

いま世界的に新型コロナパンデミックの真っ只中ですが、日本ではこれに追討ちをかけるように、7月初旬には「令和2年集中豪雨」と命名された災害で熊本県や岐阜県において沢山の方々が犠牲者となられ、大きな被害を蒙ったばかりです。

この度は9年前の東日本大震災において未だ復興途上にある三陸地域のニュースをお届けするに当たり、改めて犠牲となられたすべての方々へ謹んで哀悼の意を捧げるものです。

合掌

編集局記



小岩井農場施設 第四号牛舎

年代は1908年(明治41年)
構造及び形式等 : 木造、建築面積646.15平方メートル、2階建、北面サイロ附属、
鉄筋コンクリート造及び木造、建築面積18.87平方メートル、鉄板葺



リビングヘリテージ(生きている文化財)

小岩井農場施設は、洋式農場を目指して設立されたシステムで、それを示す一連の建物群が良好な状態で保存されております。

それらはすべて明治末期から昭和初期にかけての建築で、そのほとんどが今もなお、現役で使⽤されているのです。

国指定重要文化財の建物は、総務部門の下丸、育牛部門を置く上丸、飼料を生産する耕耘部門がある中丸の3つの地区に集中しています。

我が国における近代農場の発展過程を知る上でも重要な文化財であり、近代日本の大規模農場経営の歴史を示す建物群として後世に伝えるべきものでありましょう。



国指定重要文化財


小岩井農場の敷地内には、重要文化財に指定された明治末期〜昭和初期の建物21棟あり、 そのほとんどが今も現役で使用されています。 大自然の中で、近代日本の畜産の歴史を垣間みることができます。


歴史的建造物群

小岩井農場の創業は1891(明治24)年、いわゆる近現代と歩みを共にしてきたといえます。この度の重要文化財指定においては「我が国における近代農業の発展過程を知る上で重要である」と評価されました。西洋建築にヒントを得た建築群は当時の人々には驚きをもって迎えられた事でしょう。



小岩井農場本部事務所

1903年(明治36年)建設。252.5m2(76.4坪)
木造平屋建、望楼付、寄棟造、下見板張。

意匠的に注目されるのは玄関ポーチの円形の垂れ飾りがついた鼻隠しと、重厚な扉・窓枠・窓台等。当初は周辺の樹木が小さく、望楼部分から農場全体を見渡すことができた。詩人の宮澤賢治が作品中に「本部の気取った建物…」と詠っています。



本部第一倉庫

1908年(明治41年)建設。118.2m2(35.7坪)。
木造平屋建、切妻造、下見板張。

本部の倉庫として建設され、主として備蓄品等の保管庫として現在まで用いられている。明治40年以前の台帳に「本部倉庫45坪」と記されており、1908年(明治41年)に「本部第一号倉庫35.75坪」の表記が現れることから、1908年(明治41年)の建築と考えられる。



本部第二倉庫

1898年(明治31年)以前建設。132.2m2(40坪)。
木造平屋建、切妻造、下見板張り。

井上勝から岩崎久彌へ農場が引き継がれた際の1898年(明治31年)の台帳に記載があるため、それ以前の建設と推測される。農場内では数少ない和小屋組の建築で、古い形状が残る。1915年(大正4年)、本部隣接地に移築し修繕。現在も倉庫として使用している。



乗馬厩

1936年(昭和11年)建設。320.6m2(97坪)。
木造二階建、切妻造、下見板張。

乗馬用や馬車曳用の馬を飼養した。一階は馬房、二階は餌や敷料の倉庫として使用。1905年(明治38年)建設の旧乗馬厩の古材を利用して建てられた。昭和40年代※になり、自動車を導入したことから乗用馬を廃止。現在は、倉庫として使用している。

※昭和40年は、1965年になります。



倶楽部

1914年(大正3年)建設。633.0m2(191.6坪)。 
木造平屋建、寄棟造、下見板張。

来客の応接・宿泊用、従業員の集会施設として建設。当初は1899年(明治32年)建設で、1914年(大正3年)に現在地へ移築した際、大規模に改修・増築。1927年(昭和2年)にも大規模改修。使用目的により部屋ごとに多様な造りとなっている。現在は主に会議室として使用。



四階倉庫

1916年(大正5年)建設。515.6m2(156坪)。
木造四階建、切妻造、下見板張。

家畜の飼料用穀物を乾燥・貯蔵するための倉庫。内部にエレベーターが設置されており、搬入時に四階へ上げ、階下へ降ろしながら分別し、貯蔵した。当時の場長が欧州視察の際目にした倉庫をモデルに建設。現在は主に一階を倉庫として使用。



旧耕耘部倉庫

1905年(明治38年)建設。324.3m2(98.1坪)。
木造平屋建、切妻造、下見板張。

耕耘部の倉庫として建設。飼料倉庫、乾燥庫として使用。
1921年(大正10年)、トロ馬車で飼料の運搬がしやすいよう、四階倉庫の位置に合わせて曳家。二階を撤去し大型の機械類を設置。建物内にトロッコ軌道を引き込んだ。現在も倉庫として使用。



 玉蜀黍小屋一

1929年(昭和4年)建設。99.2m2(30坪)。
木造平屋建、竪格子、切妻造。



玉蜀黍小屋二

1916年(大正5年)移築。80.3m2(24.3坪)。
木造平屋建、竪格子、切妻造。



玉蜀黍小屋三

1916年(大正5年)移築。80.3m2(24.3坪)。
木造平屋建、竪格子、切妻造。



玉蜀黍小屋四

1916年(大正5年)移築。78.6m2(23.8坪)。
木造平屋建、竪格子、切妻造。

家畜飼料用トウモロコシの乾燥・貯蔵庫として建設。(二)(三)(四)は建築年不詳。大正5年、四階倉庫の建設予定地に建っていたため、現在地へ移築されたと伝わる。(二)のみ解体して建て直した痕跡(釘穴)がある。現在は木材乾燥用に使用している。



一号サイロ 二号サイロ

1号:1907年(明治40年)建設。25.2m2(7.6坪)。

2号:1908年(明治41年)建設。26.7m2(8.1坪)。

レンガ造。青草を食べさせることができない冬場の家畜の飼料を確保するため、「サイレージ」という発酵飼料を作る施設。崩落防止のため下部を補強しているが、かつては基部までレンガだった。現存する日本最古のサイロといわれる。



一号牛舎

1934年(昭和9年)建設。478.5m2(226.4坪)。
木造二階建、切妻造、下見板張。

一階は搾乳牛用の牛舎、二階は乾牧草の倉庫。当時、場主であった岩崎久彌の命により「30年後でも恥ずかしくない牛舎を」と建てられた、当時最新鋭のスタンチョン式牛舎。他の牛舎と屋根の傾斜が違い、雪が落ちやすいようにできている。



二号牛舎

1908年(明治41年)建設。522.2m2(158坪)。
木造二階建、切妻造、下見板張。

一階は分娩用の牛舎。出産を控えた乾乳牛(出産前で搾乳を休んでいる牛)の飼育、分娩用。病畜用牛舎として建設され、1919年(大正8年)に現在地へ移築し分娩用に。もともとは土間であったが、コンクリート敷に改築している。農場内で最古の牛舎。



三号牛舎

1935年(昭和10年)建設。1,184.1m2(358.2坪)。
木造二階建、切妻造、下見板張。

一階は子牛用の牛舎。明治時代に建設した旧一号・旧三号牛舎の材を使用して建設。
子牛は月齢ごとに群管理で飼養するためそれぞれ管理の仕方が異なり、かつては種牡牛の飼育用にも使用していたため、内部は多様な飼育室に分かれている。



四号牛舎

1908年(明治41年)建設。692.6㎡(209.5坪)。
木造二階建、切妻造、下見板張。

一階は搾乳牛用の牛舎。パイプラインミルカー、バーンクリーナー等の設備を導入、昭和62年に産室を撤去し搾乳専用に改築した。二階部分の柱には建築時の手斧(ちょうな)の削り跡が残る。板張のサイロ(内部はコンクリート製)が特徴的。



種牡牛舎

1917年(大正6年)建設。249.2m2(75.4坪)。
木造二階建、切妻造、下見板張。

一階は種牡牛用牛舎。屋根に2基の換気塔と1個の屋根窓がある。内部は6つの房に別れ、個別に飼養できる仕組みになっていた。種牡牛は体格が大きく力も強いため、柵は鉄製(後補、当初は松材)となっている。現在は使用していない。



旧育牛部倉庫

1898年(明治31年)以前建設。158.6m2(48坪)。
木造平屋建、切妻造、下見板張り。

井上勝から岩崎久彌へ農場が引き継がれた際の1898年(明治31年)の台帳に記載があるため、それ以前の建設と推測される。農場内では数少ない和小屋組の建築で、古い形状が残る。本部第二倉庫と同期の建築。現在も倉庫として使用している。



秤量剪蹄室

1936年(昭和11年)移築。35.5m2(10.8坪)。
木造平屋建、切妻造、竪板張。

牛の体重測定、削蹄場として建設。外壁の形状など、場内の他の建築と異なった特徴がある。台帳では1936年(昭和11年)建設とされるが、社内報には「移築」と記述があり、別の場所で使用されていたものを移した可能性もある。1965年(昭和40年)頃まで使用。



天然冷蔵庫

1905年(明治38年)建設。242.2m2(73.3坪)。
レンガ造。

小山を掘って作られた掘り抜き貯蔵庫。電気のない時代、製乳所(現在の乳業工場)の附属設備として、主に乳製品の冷蔵に使用。夏場はバターが溶けるのを防ぐため、庫内で瓶詰め作業を行った。1952年(昭和27年)まで本格的に使用。



国指定重要文化財の建築物は、その多くが現在も使用している建築物であり、生産エリア内に位置するため、自由見学は出来ません。


詳しいお問い合わせ

TEL:019-692-4321 FAX:019-692-0303



               米



備考


本記事冒頭に述べました ー
「小岩井農場の敷地内には、重要文化財に指定された明治末期〜昭和初期の建物21棟あり、 その殆どが今も現役で使用されており、 大自然の中で、近代日本において西洋式システムによる畜産の歴史と成果を立証したその重要性を高く評価されたこと」ーとありました。


一般的には、その世界の関係者やプロでもない限り、この様な規定法に目を通す機会は中々無いものです。 改めてこの"国指定重要文化財" の意義について、眺めると、その要件を満たすことはやはり、並大抵のハードルではありませんね〜?


そこで、"小岩井" と聞いただけで何でも知りたい読者の方に概要を特別に付記致しました。 



【文化庁】

文化財保護法について①

国宝 法隆寺東院夢殿
聖徳太子を追慕して創立された法隆寺東院の中心建物です。本尊は著名な救世観音です。
あわせて、東院の創立と再興に尽力した行信・道詮の像が安置してあります。

総 論

昭和24年の法隆寺金堂壁画の焼損をきっかけに議員立法として昭和25年に成立。


【目的】

文化財を保存し、その活用を図り、もって国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の進歩に貢献すること(第1条)。


【定義】

「文化財」とは「有形文化財」「無形文化財」「民俗文化財」「記念物(史跡・名勝・天然記念物)」「文化的景観」「伝統的建造物群」の6類型をいい(第2条)、文部科学大臣が重要なものを「重要文化財」等に指定する。


【任務と心構え】

・ 政府・地方公共団体は、文化財の保存が適切に行われるように、法律の趣旨の徹底に努める責務を有し(第3条)、法律の執行に当たって関係者の所有権その他の財産権を尊重する(第4条③)。

・ 一般国民は、政府等が行う措置に協力し、また文化財の所有者等は、文化財を公共のために保存するとともに、できるだけこれを公開するなど文化的活用に努めなければならない(第4条①、②)。




他に、「美術工芸品」「史跡」「名勝」「有形・無形民俗文化財」
「伝統的建造物群保存地区」「文化的景観」等があります。



文化財保護法について②


文化財保護(=保存+活用)の法律上のスキーム


国の役割:

重要な文化財の指定・選定・登録

所有者に対する修理等に関する指示・命令等

現状変更等の規制・許可、輸出の制限

修理・公開等への補助、税制優遇措置 等


所有者の役割:

所有者の変更・毀損・所在変更等に係る届出

文化財の管理・修理・公開

重要文化財等の国に対する売渡の申出


地方自治体の役割:

文化財保護条例の制定

国指定を除く文化財の指定 等


※ 罰 則:

文化財の損壊・き損、無許可の現状変更・輸出等に対する懲役・禁固・罰金・過料


管理・公開の考え方(重要文化財(建造物・美術工芸品)の例)

※建造物と美術工芸品の指定類型はともに「重要文化財」であり同一の条項で規定されている


管 理:

文化財の管理義務は、所有者が有する。

特別な事情のある場合、所有者は自己に代わり管理を行う「管理責任者」を選任できる。

所有者・管理責任者による管理が困難等の場合、文化庁長官は「管理団体」を指定できる。







続く・・・



気象庁によると、強い台風第10号は、今後特別警報級の勢力まで発達し、5日から6日にかけて沖縄地方に接近する見込みです。その後も特別警報級の勢力を維持したまま北上を続け、6日から7日にかけて奄美地方から九州に接近または上陸するおそれがあります。
西日本から中部地方にお住いの皆様はくれぐれも注意し、早目の行動を心掛けて下さい。



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使



協力(順不同・敬称略)

小岩井農牧株式会社 〒020-0507 岩手県岩手郡雫石町丸谷地36番地1 TEL:019-692-6027

文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111



※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。


ZIPANG-4 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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