はじめに 記事をお届けするに当たり、今夏、関東・東北地域を直撃した、強烈な台風19号と、続く21号の記録的な大雨で、千葉や栃木、福島など5県の34河川で浸水被害や土砂災害により亡くなられた方々を始め、多岐に亘って被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。また、このたび我が国の世界遺産である沖縄のシンボル首里城の正殿等主要部分の全焼被害が続き、国民として深く哀悼の意を捧げつつ…
三溪園 国指定重要文化財「聴秋閣」
三溪園は生糸貿易により財を成した実業家 原 三溪※によって、1906年(明治39)5月1日に公開されました。175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により1902年(明治35)頃から造成が始められ、1914年(大正3)に外苑、1922年(大正11)に内苑が完成するに至りました。
三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「神輿振」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれました。その後、戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至ります。
史跡名勝天然記念物「三渓園」
大正3年(1914年)には旧燈明寺の三重塔を大池西の丘陵上に移築して全園のランドマークとし、外苑を完成。
三溪園では、11月下旬から12月上旬にかけて、赤いモミジ、黄色のイチョウが鮮やかに色づきます。また、緑から赤や黄に変わるグラデーションも美しく、数ある古建築を眺めながら、園内の散策も楽しめます。この季節、紅葉に映える重要文化財2棟を公開しています。
「聴秋閣」は、二条城内にあったとされ、将軍家光が春日局に下賜したとされる楼閣建築。
「春草廬」は、織田信長の弟・有楽作といわれる三畳台目の茶室。
いずれも樹々に囲まれ、紅葉の季節は一層美しく潚洒なたたずまいをみせます。
紅葉の中、風情たっぷりのひとときを横浜「三溪園」でお楽しみください。
*三重塔を望む絶景が楽しめる聴秋閣奥の遊歩道も同期間開放します。
*建物は小規模であるため、間近での見学となります。内部に立ち入ることはできません。
期間: 2019年11月23日(土)~12月8日(日)
時間: 9:00~16:30
料金: 入園料(一般700円)のみで園内観覧できます。
2019年12月5日(木) 午前10時~午後2時三溪園にて横浜の日本文化を感じられるお土産品として新たに開発した三溪園ならではの商品のお披露目会を開催します。
観光需要の大きい横浜都心臨海部に立地する三溪園において、魅力ある「和」を体験した上で、その体験を友人や家族等に伝えたくなるお土産品を地元や自国に持ち帰っていただくことにより、横浜の魅力を広く発信することを目的として開発しました。
開催場所 三溪園(中区本牧三之谷58-1) 三溪記念館内 茶席・望塔亭の奥
【公開古建築(重要文化財2棟)】
いずれも江戸時代初期の建造物で、デザイン性に富み、色づく紅葉のなかでは一層の情趣を楽しめます。
国指定重要文化財「聴秋閣」
初夏の「聴秋閣」
●聴秋閣(ちょうしゅうかく)
建築 江戸時代初期 元和9(1623)年 / 移築 大正11(1922)年
徳川3代将軍家光が将軍宣下を受けるにあたり上洛した際、京都の二条城内に建てられたと伝えられ、のちに乳母の春日局(かすがのつぼね)に与えたと伝えられる楼閣建築。
この建物は江戸時代の武士 佐久間将監(さくましょうげん)の作と伝わります。小堀遠州(こぼりえんしゅう)と同時代に幕府の造営・修繕に関わる作事方を務めた人物で両者とも茶の湯に深く似た境遇であったため、遠州はライバル的存在であったのかもしれません。この建物から将監の挑戦・意欲が伺えます。
国指定重要文化財「春草廬」
初夏の「春草廬」
●春草廬( しゅんそうろ)
建築 小間:江戸時代、
広間:三溪園に移築後に増設 / 移築 大正11(1922)年
京都宇治の三室戸寺金蔵院(みむろとじこんぞういん)にあった茶室で、茶室内に九つの窓があることから、古くは“九窓亭(くそうてい)”と呼ばれていました。 多くの窓を持つもので、華やかな茶室です。織田信長の弟で茶人として知られる有楽(うらく)の作といわれる茶室。
※原 三渓
原 三溪(本名富太郎)(1868年/慶応4-1939年/昭和14) 岐阜県厚見郡佐波村(現在の岐阜県岐阜市柳津町)で代々に渡り、庄屋をつとめた青木家の長男として生まれました。幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、1885年(明治18)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。1888年(明治21)頃に跡見学校の助教師になり、1891年(明治24)に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍。原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組、生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を収めました。
実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、1906年(明治39)三溪園を無料開園するほか、美術品の蒐集や芸術家の支援・育成を行いました。1923年(大正12)の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、それまでの作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。三溪自身も書画をたしなみ、その作品の一部は、園内の三溪記念館に収蔵されています。
原 三溪(本名富太郎)が経営していた、世界遺産 旧富岡製糸場
国宝 旧富岡製糸場の東置繭所(群馬県富岡市富岡1番地)
世界遺産「旧富岡製糸場」は,明治政府が設立した模範的な器械製糸工場です。
フランス人の生糸検査人ブリュナの企画指導のもと,横須賀造船所の技師バスティアンが図面を作成し,施工は日本人があたり,明治5年10月4日に操業を開始しました。
3棟はいずれも木造の軸組に壁を煉瓦積とした木骨煉瓦造であります。
繰糸所は敷地の中心に位置する繰糸を行う建物で,桁行が140メートルと長大であり、キングポストトラスの小屋組や高い天井,鉄製ガラス窓で明るい大空間を実現しています。
東西の置繭所は,繰糸所と直交方向に建つ桁行104メートル,二階建,ほぼ同形の建物です。繭を乾燥,貯蔵し,乾燥のために多数の窓を持っています。東置繭所は入口正面の建物でアーチの要石に「明治五年」の銘を刻んでいます。
旧富岡製糸場は,明治政府が推進した産業近代化の政策を端的に物語る官営の器械製糸工場で,繰糸所と東西の置繭所は,我が国の製糸工場建築の模範となりました。
極東地域において,西洋,特にフランスの技術を導入し,日本固有の技術と融合させることで産業革命を成し遂げ,世界の絹文化の発展に大きく貢献した我が国の絹産業の拠点施設であり,文化史的に深い意義を有しています。
国指定重要文化財2棟 聴秋閣と春草廬、遊歩道も公開いたします。
いずれの建物もデザイン性に富み、色づく紅葉のなかでは一層の情趣を楽しめます。
この機会を逃さずにお越しください。お待ちしております。
参考
横浜の新しい顔のご紹介です。下記のリンク記事をご覧ください。
ZIPANG-3 TOKIO 2020 “埠頭の上でミナトを楽しむ” 横浜に 『客船ターミナル』『商業施設』『ホテル』の 一体型新複合施設がオープン」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6441275
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
横浜市役所 〒231-0017 神奈川県横浜市中区港町1丁目1電話: 045-671-2121
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