ZIPANG-4 TOKIO 2020 紫衣事件!  悲劇の主人公 ・ 沢庵和尚の人徳を偲ぶ秘話が面白い【寄稿文】日原もとこ

奥州三名城の一つとされた
上山城。別名: 月岡城とも呼ばれる(山形県上山市)


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いま世界的に新型コロナパンデミックの真っ只中ですが、日本ではこれに追討ちをかけるように、7月初旬には異常気象による局地的な集中豪雨現象が各地に発生しております。気象庁はこれを称して、「令和2年集中豪雨」と命名しました。

特に熊本県南部、川辺川・球磨川流域を中心とした地区では急激な増水濁流で81名の方々が死亡、行方不明となられる一方、岐阜県下では広範囲に亘る崖崩れや土砂災害、幹線道路の崩落で交通網の遮断。飛騨川流域を中心とする地域では家屋の損壊、浸水等の被害がありました。

ここに謹んで被災された方々への御見舞と共に尊き命を犠牲にされた方々へ深く哀悼の意を捧げます。

残された私達はその戴いたメッセージを正しく新しい未来へと生かす事を誓い祈念するものであります。

編集局記

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先ず、紫衣事件に因む沢庵和尚流配の地についてご紹介を致します。(畏れながら私こと紅山子は近隣に住まう者として、一言嘴を挟みたくご無礼のお赦しを…)


山形市に隣接するかみのやま温泉は県下では一、二を競う有名な温泉地帯です。この場所は、湯町,新湯,河崎温泉,高松温泉,葉山温泉の 5 地区の総称ですが、近年は十日町温泉や、新湯温泉等を加えるようです。


当地は真正面に聳える雄大な蔵王山塊と間近に対峙し、特に葉山温泉地区からの眺望は見事です。


此処には古い城下町があり、実は本記事が触れている紫衣事件の最大悲劇の主人公・沢庵和尚ゆかりの地なのであります。


〜沢庵和尚の出自と運と才能〜   

沢庵和尚こと沢庵 宗彭(たくあん そうほう・1571ー 1646) は、但馬国出石(現兵庫県豊岡市)に生まれ、幼少から出石町にて寺奉公した後、縁あって住職昇進のお供で京の都、五山の筆頭、南禅寺と並ぶ大徳寺※ にて更に修行を積み、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて臨済宗大徳寺の第154世住持へと駆け上りました。

※京都五山(きょうとござん)とは、臨済宗の寺院の寺格で、別格とされる南禅寺とともに定められた京都にある五つの禅宗の寺院。

沢庵和尚の菩提寺は但馬国出石町にある円覚山宗鏡寺(通称沢庵寺)画像「沢庵忌」の場面

〜 紫衣 (しえ) 事件とは 〜

さて、先の~本朝無双之禅苑 大徳寺本坊~ 特別公開のご案内の記事では " 紫衣事件" に触れていましたよね?何事が起きたのでしょうか? 歴史的に僧衣の位階色を授けるしきたりは天皇即ち、朝廷側の詔において行われた由緒ある制度でしたが、時の政権、徳川幕府は禁中及び公家諸法度を定め、朝廷との関係を弱めるため、寺社への締め付けを厳しくしたのです。


特に、天皇家との所縁が深い大徳寺クラスの寺院に対しては、住持職の指名や紫衣の着用に関しても幕府が絶対的権限を持ち、幕府の許可した者に限るとしていたのです。


中でも大徳寺住持、沢庵宗彭和尚は書画・詩文に通じ、茶の湯にも親しみ、また多くの墨跡を残すなど、文芸にも秀でた方で、多くの公家たちからの人気も高く、とりわけ後水尾天皇が深く帰依された名僧とされていました。そんな背景もあったのでしょう。


嘗ての栄華をた平安貴族たちは、鎌倉幕府以来の武家社会成立以降、皇族貴族階級は名あっても実なしの完全なる骨抜きで、支配階級の座を奪われたのです。


その権力の頂点に立った徳川幕府に至っては、怖いものなし! 長い年月を掛けて抑圧された皇族、貴族の幕府に対する確執たるものは如何ばかりだったことでしょうか? しかも、現代の皇室における叙勲制度の如き制度は、当時でも法衣の位階色を天皇から賜る栄誉感覚は特別なものがあった筈です。 


それに抗議したのか朝廷側とご当人、沢庵和尚だったのです。その結果、出羽国への流罪が下されたのです。(沢庵は本来、無欲の人柄とあり、抗議した為の流配でした。それは幕府の天皇に対する不敬不遜の姿勢に憤り、自ら罪を覚悟して反論したものと解されます。) 

沢庵を癒やした "春雨庵"

上山城主、土岐頼行公が茶道を深く嗜む沢庵和尚の慰めに草庵を寄贈しました。それがこの、"春雨庵"(山形県上山市)です。

春雨庵(山形県上山市)

沢庵和尚ゆかりの"春雨庵" を是非、ご見学下さい。
大変、趣のあるユニークな茶庵の集合体を巡る、思いがけない楽しい体験になると思います。


時の上山城主・土岐頼行はこの絶望の淵にある遠来の賓客を慰めようとプレゼントしたのがこの "春雨庵" です。沢庵はここで3年間を過ごした後、許されて江戸に戻り、北品川に萬松山東海寺を開山しました。


沢庵…若しかしてあのタクアン漬け?

正解! その通りです。沢庵の名前は元々黄色い名前ではなく、かなり高尚な響きを放つものでした。その内容とは…… 


以下、沢庵和尚菩提寺、出石のお寺さまから………とても愉快なそして薀蓄のあるエピソードのご許可を頂きました。


ある日、沢庵和尚は、徳川家光に「和尚、余は近頃何を食べても、 味がなくて困る。なにか口に合うものがあれば食べさせてくれ。」と求められました。 


「それはおやすい御用でございます。明日午前10時ごろ、拙僧のところへおいでください。
もっとも当日は、私が主人で殿は客、わがままを言われても困ります。それだけはご承知ください。 また、どんな用があってもご中座されません様お願い申し上げます。」と答えました。


家光は喜んで帰っていき、翌日家光は沢庵のところへやってきました。 時は、12月下旬、夜明けごろ降り出した雪で一面の銀世界でありました。


沢庵は家光を茶室に案内し、「しばらくお待ちを。」と引き下がってしまいます。 ところが待てど暮らせど一向に和尚は出てこない。


朝の10時から待たせておいて、昼になっても現れない。3時になっても現れない。

円覚山宗鏡寺(通称沢庵寺)は、沢庵の精神性に則り美味しいご飯の炊き方を伝授・・・

寒さを凌ぐのは炭火の火鉢のみ・・・これもまた修行の内なのかな~⁉


家光が腹が減って目が回りそうになった頃、
和尚が出てきて、「遅刻致し恐れ入ります。沢庵手製の料理、何卒ご賞味ください。」 と、御膳を差し出しました…。


お膳を見ると、黄色いものが二切れ皿に乗り、椀が添えてあるばかり、 他には何もない。


 椀の蓋をとってみたが、中には飯が入っており、湯がさしてありました。
それでも家光は腹が減ってたまらない。


「和尚、馳走になるぞ。」と大急ぎで椀を抱え込み、カツカツと食べ出しました。
「おかわり。」


家光はようやく腹が一杯になったとみえて、やっと箸を置きました。


そして、「時に、和尚。この黄色いものは一体何であるか。」と問うと、 「それは大根の糠づけでございます。」と沢庵は答えました。


「ほほう。」と、家光がすっかり感心してしまった時、沢庵はおもむろに姿勢を正してこう言いました。


「上様は征夷大将軍という御位、人間の富貴この上なく、されば結構なるものを毎日お膳に供えて、それに口がなれて旨味がございませぬ。


つまり口が贅沢になっているからでございます。故に今日、空腹待ち、かような粗食を差し上げたのでございます。」


上様は怒りもなく、「美味じゃ。」とのこと。


 「以後、空腹になるのを待ってお食事されるとよろしゅうございます。」 とそれとなく将軍を戒めました。


後日、家光は沢庵を招き、貯え漬けならぬ「たくあん漬け」として一般にもこれを貯えさせました。



円覚山宗鏡寺(通称沢庵寺)へと
続く・・・



【寄稿文】日原もとこ
東北芸術工科大学 名誉教授 まんだら塾塾長
風土・色彩文化研究所 主宰 えみし学会会員  



協力(順不同・敬称略)

円覚山宗鏡寺 〒668-0217 兵庫県豊岡市出石町東條33 電話 0796-52-2333

一般社団法人上山市観光物産協会
〒999-3134 山形県上山市矢来1丁目2-1 TEL : 023-672-0839



※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。

ZIPANG-4 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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