ZIPANG-4 TOKIO 2020 「 創建二千年の歴史を持つ能登一宮 気多大社の国指定重要文化財(3)」

はじめに 記事をお届けするに当たり、今夏、関東・東北地域を直撃した、強烈な台風19号と、続く21号の記録的な大雨で、千葉や栃木、福島など5県の34河川で浸水被害や土砂災害により亡くなられた方々を始め、多岐に亘って被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。また、このたび我が国の世界遺産である沖縄のシンボル首里城の正殿等主要部分の全焼被害が続き、国民として深く哀悼の意を捧げつつ…


創建二千年の歴史を持つ能登一宮 気多大社

ー 気多大社の故事来歴 ー

気多大社の清々しい朝の様子です。陽の光を受けてさらに氣が満ちてくる…
突如、一天俄にかき曇り、雷鳴と共に海から龍が一直線に「入らずの森」に降下しました。そして神聖なる湧き水を呑み干すと、龍は見定めた奧宮から本殿・拝殿・神門さらに真直ぐに伸びた参道を抜けて大鳥居をくぐると再び昇龍となり大海へと飛翔していく様が目に浮かびます。  

気多大社の社殿に彫刻された見事な双竜(昇り龍と降り龍)。
加賀藩お大工の開祖で建仁寺流(17代) 山上善右衛門作に違いない・・・

印象派の絵画のような風景。気多大社 国の天然記念物「入らずの森」の背後に湧き水があります。一の宮地区・柴垣地区の水源です。
きっと、ここは龍の水呑み場…天空の雲にひそむ龍がいまにも・・・


古くは天平20年(西暦748年)、当時越中国守であった大伴家持が能登巡行の折に「気太神宮」に赴いたことが「万葉集」に遺されています。平安時代の神社台帳である「延喜式神名帳」では名神大※に列しています。


能登半島の付け根、羽咋市北方に日本海に面して鎮座するのが気多大社。御祭神の大己貴命は出雲から舟で能登に入り、国土を開拓したのち守護神としてこの地に鎮まったとされます。古くから北陸の大社として知られ、中世・近世には歴代の領主からも手厚い保護を受けました。 現在は本殿など5棟の社殿が国の重要文化財に指定されているほか、国の天然記念物の社叢「入らずの森」で知られています。


御祭神が大国主命と言えば我国で最古の神社 出雲大社(旧官幣大社)と同じ御祭神を御奉斎しております。


奈良に都があった時代から北陸の大社として朝廷からの尊崇も厚く、文献に最初に登場するのは、大伴家持が能登を巡行したときに「之乎路(しをぢ)から直超え(ただこえ)来れば羽咋(はくい)の海 朝凪ぎ(あさなぎ)したり船楫(かぢ)もがも」と詠んだ歌が収められた「万葉集」というほどの古き歴史を語る「気多大社」。


能登国は養老2年(718年)5月2日に越前国から能登半島を構成する羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を分立して成立しました。
その能登国一宮の社格をもつ、気多大社は能登半島一円の総鎮守として現在、石川県の羽咋市に存在します。


 以来、歴代の領主からの手厚い保護により社領の寄進と社殿の造営などが重ねられて来ました。


奥宮「入らずの森」の神秘

中でも、加賀藩が保護した社叢には奥宮があり、普段は宮司以外は立ち入り禁止とされ、奥宮での神事がある際に神官が森の中に入るときには目かくしをして通行しなければらないとされ、「入らずの森」※として聖域となっています。

※昭和天皇の御歌に詠まれた「入らずの森」

昭和天皇をご案内する気多大社 三井宮司。いつも天皇陛下に寄り添われている入江侍従長の懐かしいお顔も・・・

 昭和58年5月、昭和天皇が行幸された際にこの「入らずの森」にお踏み入りになり

『斧入らぬみやしろの森めづらかにからたちばなの生ふるを見たり』

と御製をお詠みになりました。


そんな神秘的スポットを抱える気多大社の名前からも「氣」が多く集まる神社とする伝説は揺るぎなきものになっています。


また、気多大社の御祭神である大己貴命(おおなむちのみこと)は出雲大社では大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)といわれる縁結びの神様であることから、全国から多くの参拝客が訪れる神社となり、縁結びスポットとしても一躍注目を集めております。


年間御奉斎日

門出式(1月11日)、平国祭(3月18~23日)、例祭(4月3日)、御贄祭(5月・9月1日)、
大祓式(6月30日)、鵜祭(12月16日)など、四季折々に様々な神事が行われ、
境内はゆかしい風情が漂います。


境内ご案内

気多大社の国指定重要文化財


国指定重要文化財「神門」

桃山時代 

気多大社 羽咋市寺家町

重要文化財 昭和36年6月7日指定

国指定重要文化財 神門

この神門は、四脚門という形式で、2本の円柱の本柱を、それぞれ唐居敷という厚い板の上に立て、その前後に4本の大面取り角柱が控柱(袖柱)として立つ。切妻造り、平入り、檜皮葺の屋根は、反り増し付きの軒桁、化粧棟木、化粧たるきなどで軒先は真反となって快い曲線を見せています。木割も太く、袖柱の面も大きく、柱頭は頭貫でつなぎ、拳鼻をつけ、柱上は三斗組の組物を置き、中備も三斗組として桁を受け、妻は虹梁の上に板かえる股、大斗実肘木で棟を受けています。


建立年代は、社伝に天正12年(1584)としていますが、細部や全体のおおらかさからみて建立の年代の下限としてよい。江戸初期には少なくなる真反り、反り増し、板かえる股の曲線など、伝統の本格的技術を忠実に駆使して建てられている建物であります。社蔵の由緒書によると、延宝8年(1680)に本殿以下の諸殿とともに修理をうけています。
昭和60年「石川県の文化財」より

神門から拝殿を眺める…夜のうちに雪が降ったようです。拝殿の屋根は一夜のうちに薄らと雪化粧。心温もる羽咋の冬の到来です・・・


国指定重要文化財「拝殿」

承応2年(1653)

山上善右衛門造

気多大社 羽咋市寺家町

重要文化財 昭和36年6月7日指定

気多大社 国指定重要文化財 拝殿。切り石を敷き詰めた境内の石畳も見ものです。

気多大社 拝殿 月次祭「ついたち結び」巫女舞

月次祭「ついたち結び」には、全国から毎回大勢の人たちが参加されています。

拝殿の奥の間は角柱、格天井の間には丸柱が使われています。木組みなども実際にご覧ください。最後の宮大工と言われた法隆寺の大工「西岡常一氏」のこんな一言を思い出しました「木のくせ組むには人を組め」・・・

気多大社「縁結びの絵馬」。それぞれの願い事をお書きいただきご奉納ください。


気多神社拝殿は、桁行3間、梁行3間で、屋根は入母屋造り、桧皮葺、妻入りになっています。4面に切目縁を巡らしていますが、高欄は付いていません。縁へは正面と両脇側から石段で昇ります。軸部は、粽のある円柱に頭貫・台輪をのせ、柱上・柱間ともに阿麻組の組物で軒先を支えていて、柱間には長押を付けず、正面と背面中央には藁座を付けて桟唐戸を建て込み、その他の間には舞良戸が入れてありますが、唐様を主調とした建造物であります。


建立年代は、小屋梁の墨書によって、承応2年(1653)から同3年(1654)にかけて建立されたことが知られています。建仁寺流の加賀藩御大工山上善右衛門嘉広の作と伝えるが「山上家由緒書」に小松天満宮や那谷寺とともに気多神社の拝殿を建てたと記しているのみで、確証は得られない。しかし、妻の破風部分を強調していることや、細部が那谷寺護摩堂ときわめてにていることなど、善右衛門の作と感じさせる点が多い。
昭和60年「石川県の文化財」より


国指定重要文化財「本殿」

天明7年(1787)

清水次左衛門・清水多四郎造

気多大社 羽咋市寺家町

重要文化財 昭和57年6月11日指定

気多大社 国指定重要文化財 御本殿

気多神社本殿は、桁行3間、梁行4間の両流造りで、正面に1間の向拝を付け、4周に高欄付きの縁を巡らしています。両流造りは、この本殿や、厳島神社にしか見られず、類例が乏しい。平面にもきわめて重要な特色があり、外陣・中陣・内陣の3室に分け、内陣は奥の2間とし、その前方1間を囲って神座とし、後方の1間を御納戸と称する特異な形態をとって、神仏習合の影響を濃厚に伝えています。


建立年代は、棟札によって天明7年(1787)であることが知られ、大工は清水次左衛門峯充です。
細部の様式は古風であり、かえる股なども天明期と思われものであります。妻には彫刻を多用しているが、装飾過多には陥っていない。
昭和60年「石川県の文化財」より


国指定重要文化財「若宮神社」

永禄12年(1569)

気多大社 羽咋市寺家町

重要文化財 昭和25年8月29日指定

国指定重要文化財 若宮神社

気多神社の拝殿の奥には、中央の大型の本殿に並んで、その左脇に摂社若宮神社本殿、右脇に白山神社本殿があり、3棟の本殿が立ち並んでいます。若宮神社本殿は、事代主命を祀り、永禄12年(1569)に能登守護畠山義綱により再建されたもので、小屋束に墨書銘があり、石川県下で数少ない戦国時代の建築の1つです。


1間社流造り、檜皮葺で、全体に繊細な感じのする建築ですが、かえる股や手挟みの彫刻にはこの時代独特の若葉が見られ、妻の大瓶束の雲形模様がすぐれています。向拝の木鼻や頭貫木鼻もすぐれており、向拝は、大面取り角柱に連三斗、手挟で身舎は円柱に連三斗で桁を受けています。軒先は二軒繁たるきで、向拝だけを一軒にしているのは簡潔であります。4周に高欄付の切目縁をめぐらし、亀腹(土壇の周囲を土台下から地盤面まで丸く仕上げたもの)の上に立つ。縁束は柱の間隔で立ち、中間を省略しているのも向拝の軒先と同じ感覚であります。大きな本殿の脇に小さく建っている姿は、いかにも室町的な感じがします。
昭和60年「石川県の文化財」より


国指定重要文化財「白山神社」

天明7年(1787)

清水次左衛門・清水多四郎造

気多大社 羽咋市寺家町

重要文化財 昭和57年6月11日指定

国指定重要文化財 白山神社

摂社白山神社本殿は、気多神社本殿と同年の棟札があり、同時に同じ大工によって造られています。3間社流造り、檜皮葺で、本社本殿の右側に並んで建っていますが、内陣の形式は本殿に準じており、本殿に合わせて規模意匠を整えていることがわかります。
昭和60年「石川県の文化財」より


氣多大社社叢(入らずの森)

気多大社 羽咋市寺家町

指定面積 2万6299平方メートル

国の天然記念物 昭和42年5月2日指定

国の天然記念物指定 入らずの森 

気多神社の社叢は、神域「入らずの森」として神聖視され、神官も、年1回、社叢内の奥宮の神事を勤めるために目かくしをして通行します。照葉樹林(暖地性常緑広葉樹林)としては、ことに中心部において極めて良く原生相が維持されており、常緑樹の枯死倒壊と交替したエノキの下に、ヤブニッケイ・タブノキなどの陰樹が生長しつつあるという遷移相も典型的に認められます。


中心部は、スダジイの極盛相を示していますが、周辺は次第にタブ林に移り、ヤブツバキ・ヒサカキ・ヤブニッケイを亜高木とし、下層の林床にカラタチバナ・オオバジャノヒゲ・ムラサキニガナ・オモト・ホクリクムヨウラン・ベニシダなどです。つる植物にテイカカズラ・ムベ・フジ・キズタ・イタビカズラ・ツルマサキ、着生植物にマメヅタなど、暖地性のものが多くみられ、カスミザクラ・アワブキ・イヌシデの混生は実生とみられますが、スギ・サカキは、植栽でなければ2次的野生と認められます。
昭和60年「石川県の文化財」より


お知らせ

天皇陛下御即位記念 入らずの森気の葉祭

12月1日金沢駅西広場団体バス乗降場⇔気多大社無料送迎バス運行



参考1

世界の樹木

スダジイ

ブナ科シイノキ属。常緑高木。福島県から佐渡以南の本州、四国、九州、沖縄、済州島の暖地の海岸沿いの山地に多く分布する。別名イタジイ、ナガジイという。

高さは15-25メートルほどになり、よく枝分かれし、多くの葉をつけ、樹冠はドーム型になります。心材は腐朽しやすく、葉が多く付いている枝でも、内部は空洞だったりします。樹皮は黒褐色で、老木になると縦に深く裂け目ができます。葉は互生、葉身は広楕円形、厚く革質、表面は深緑色だが、裏面は灰褐色で、鱗片状の毛を密生します。

縁は全縁か、上半部に鈍鋸歯があります。雌雄同株、雌雄異花。5-6月に、淡黄色で長さ8-12センチの尾状花序が本年枝の下部から、上向きに出て雄花をつけます。雌花序は本年枝の葉腋から上向きに出ます。花が咲いた翌年の10-11月頃に長さ1-1.5センチ程度の堅果(どんぐり)が熟す。熟すと殻斗の先端は3裂し、中にある堅果を覗かせ庭や公園などに、よく植えられています。


エノキ

ニレ科。落葉高木。高さ20mになる。ムクノキに似ており、わが国では 本州・四国・九州の山野に分布します。

その他、朝鮮半島、中国中部に分布し、人里に近いところに多くみられます。
卵形の葉は、三本の葉脈が目立ち、 左右が不対称なのが特徴。10月ごろ、径7㎜の赤い小さな実をつけます。 甘味があり食用にもされますが、もっぱら小鳥たちが好んでついばみます。 江戸幕府の二代目将軍の徳川秀忠は、参勤交代制度の確立のために、 諸国に街道の整備を命じたが、その際、街道両側にエノキを一里ごとに植えさせたという。これが一里塚であり、今でも旧街道筋には「二本榎」などの地名が残っています。

エノキが選ばれたのは、将軍が「よい木を植えよ」と言ったのを、家臣が「エノキを植えよ」と聞きまちがえたという説がありますが定かではありません。現存する一里塚には、エノキばかりでなく、ケヤキや ムクノキといった樹種が一里塚に適していたのでしよう。 エノキの材は、黄褐色から淡黄色で、主に建築材や器具材にされ、ケヤキの模擬材にもされています。庭園樹や公園樹としても植栽されます。


ヤブニッケイ

本州(福島県以南),伊豆七島,四国,九州から琉球列島、および朝鮮半島南部、台湾、中国などに分布。海に近い暖地に多く、人家の周囲に栽植する常緑の高木。通常樹高10~15m。直径30~40cm。大きいものは樹高20m。直径70cmに及ぶものもあり、樹皮は暗色。葉は対生も互生もし、革質で光沢があり長さ6~12cm。花は初夏、やくは弁開する。和名は藪にはえるニッケイの意。別名マツラニッケイは長崎県松浦で樹皮をとり松浦桂心と呼ぶためです。

木材は比重 0.56、 辺材・心材とほぼ同色で黄白色~淡黄褐色。肌目はやや粗。材面に光沢があります。中硬材。用途: 建築材(造作用),器具材,薪炭材。  


タブノキ

常緑高木。 本州中南部、四国、九州、琉球、台湾、朝鮮半島南部、中国中南部に分布します。
別名イヌグス。中国名は楠。高さ20m。直径1m。木理はやや粗。比重は0.65。散孔材。心材は紅褐色、ただし濃色のもの(ペニタブ)と淡色のもの(シロタブ)とがあります。辺材は淡黄褐色。年輪は木口面ではおおむね明瞭であるが、柾目・板目面ではやや不明瞭。肌目は粒く、しばしば交錯木理や杢があらわれます。強さ、切削・加工性、耐朽・保存性、乾燥の難易、ともに中位。割裂は困難。

古代の信仰で対象となった大きな樹が霊(タマ)の木であり、それが タモ、タブと変化したとも考えられています。 また『万葉集』の大伴家持の歌、「磯の上の都万麻を見れば根を延へて年深からし神さびにけり」のツママは、タブノキとされています。 葉の表面はつやがあり、触るとなめし革のようになめらかで厚い。

安価な線香は通常、スギの葉の粉末を糊で固めてつくられるが、高級な香というのは、ジンコウやビャクダン、チョウジといった各種の香木・香草を練り固めてつくられます。

タブノキの樹皮には水と混ぜると粘液を生ずる成分が含まれ、古来、たぶ皮と呼ばれ、線香や練香の粘料として使われました。また八丈島では、樹皮は褐色の染料として用いられました。また、クスノキのような芳香はないが、材は良質で、建築・家具・細工物などに広く利用されています。


参考2

平成15年10月8日(水)~12月13日(土)高岡市立博物館にて開催された
企画展「百万石の大工さん」の資料によると・・・

加賀藩における大工さんの歴史は古く、初代前田利家の金沢入城の翌年(1584年)、金沢に「大工百余人」を招いたとの記録があります。彼らはそれ以前から利家に従って各地を転戦してきた、いわば"工兵部隊"が中心でした。


加賀藩の大工集団は当時の建築二大流派である唐様(禅宗様)の「建仁寺流」と和様の「四天王寺流」を中心に、越中の井波や大窪(氷見)に屋敷地を拝領した集団などからなっており、藩は彼らに互いに腕を競わせ、幕府と肩を並べる程の高い建築技術水準を誇っていました。


国宝・瑞龍寺の棟梁として名高い山上(やまがみ)善右衛門嘉広(1598・99頃~1680)は、建仁寺流(17代)を受け継ぎ、加賀藩御大工の開祖となった人物です。嘉広は他にも那谷寺・妙成寺・小松天満宮・能登気多大社、また大岩山日石寺などの藩内を代表する寺社を手掛けたといわれています。 



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使



協力(敬称略)

能登國一宮 気多大社 〒925-0003 石川県羽咋市寺家町ク1-1 Tel :0767-22-0602
写真撮影 三井孝秀宮司 



※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。

ZIPANG-4 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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