はじめに 記事をお届けするに当たり、今夏、関東・東北地域を直撃した、強烈な台風19号と、続く21号の記録的な大雨で、千葉や栃木、福島など5県の34河川で浸水被害や土砂災害により亡くなられた方々を始め、多岐に亘って被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。また、このたび我が国の世界遺産である沖縄のシンボル首里城の正殿等主要部分の全焼被害が続き、国民として深く哀悼の意を捧げつつ…
姥神(うばがみ)とは
姥神の定義の説明の前にまず、奪衣婆の説明をさせていただきたい。 奪衣婆とは、死後にあの世へ渡るための三途の川の岸辺にいて、亡者の衣を脱がせる存在である。なぜ脱がせるのかと言うと、その衣を衣領樹(えりょうじゅ)と呼ばれる木の枝にかけるためである。そうすると生前の罪の大きい者は枝が大きく下がり、小さい者はほとんど動かない。亡者の罪はその衣に重さとなって染み込んでいることになる。衣領樹は罪を量るはかりであり、それを審査するのが奪衣婆である。
新潟県十日町市の姥婆尊
33年に一度ご開帳。天台宗両澤山大慶院の大日姥婆尊
通常は厨子は閉められ、拝観できません
天台宗両澤山大慶院
新潟県十日町市に天台宗両澤山大慶院があり、本尊として大日姥婆尊を祀っています。前回ご紹介しました長野県の西正院が7年に一度だったのに対し、こちらは33年に一度のご開帳でしか見ることができません。
最近では2018年9月7、8日にご開帳し、長野県の西正院と同じく回向柱を設置し、法要を行っています。この時、この寺のある新座地区の檀家などが中心になってご開帳の行事を進めています。
回向柱の立った大慶院
ちなみに回向柱と言えば長野県の善光寺ですが、こちらも7年に一度のご開帳となっています。長野県西正院は同じく7年に一度でしたが、この新潟県の大慶院では33年と非常に長い期間となっています。
縁起では立山から
この本尊の縁起は、承徳元(1097)年に石原道仙という者が、ある夜の夢に恐ろしい老婆が現れ、「我はこれ冥府三途の河の辺に住む奪衣婆なり。外には極悪念怒の相を現しているが、本地は大日如来にして大慈悲心を以って衆生を済度す。」と、自分は奪衣婆だが正体は大日如来だと話し、さらには越中立山に降り立ち、永く鎮座して民衆を救済してきたが、汝の善意がすばらしく、この地も仏法流布の霊地なのでここに来たい。了善和尚と一緒に立山に来て私の尊像を移してほしい、と続けたとされます。
そこで、道仙はこの夢の内容を了善和尚に話し、一緒に立山の芦峅寺に行ってその夢のことを話したところ、芦峅寺でも同じことがあったらしく、中心となる姥婆如来三体のうち一体を授かってこの大慶院に安置したということです。
また、このとき台座を新しくしたことから、村の名前を新座と改称したそうです。
大慶院所有の地獄絵に奪衣婆の姿
立山だけでなく湯殿山も
縁起では立山から移されたとされ、木像であること、秘仏として取り扱っていることから、この大慶院の姥神像も立山に関連して祀られたものだと考えることができます。
境内にある出羽三山碑
ただし、境内には湯殿山を中心にした出羽三山碑があります。また、この寺の開基について、本尊が立山から移される以前、平城天皇の時代(774-824年)に、役行者から八代目の国珍大僧正が、霊感を受け出羽の羽黒山を開山するために向かう途中、この新座を霊地として感得し衆生を教化していました。この時、諸人の帰依が非常に厚く、懇望されたため、弟子の珍教阿闍梨に捧持仏不動明王を与え、この地に残して出羽の国に向かったとのことです。その後、大同元(806)年に珍教阿闍梨が伽藍を造営したのが始まりだとしています。
さらに寛文7(1667)年に、湯殿山の祈祷を任すとの旨が書かれた書状を受けているらしく、湯殿山との関わりも強かったことがわかります。
また、お札には「女人成仏、安産、子育」の文字が見えます。この大慶院でも長野県の西正院と同じく、安産や子育てにもご利益があるようです。
参考文献
「うば尊を祀る」、立山博物館、二〇十七年
続く・・・
寄稿文 廣谷知行(ひろたに ともゆき)
姥神信仰研究家
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