はじめに 記事をお届けするに当たり、今夏、関東・東北地域を直撃した、強烈な台風19号と、続く21号の記録的な大雨で、千葉や栃木、福島など5県の34河川で浸水被害や土砂災害により亡くなられた方々を始め、多岐に亘って被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。また、このたび我が国の世界遺産である沖縄のシンボル首里城の正殿等主要部分の全焼被害が続き、国民として深く哀悼の意を捧げつつ…
1.首里城とは
首里城は沖縄の歴史・文化を象徴する城であり、首里城の歴史は琉球王国の歴史そのものである。
首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられている。いくつもの広場を持ち、また信仰上の聖地も存在する。これらの特徴は、首里城に限られたものではなく、グスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴であった。他のグスクは首里城との競争に敗れ滅んでしまったが、首里城はグスクの特徴を保持しながら新たな発展を遂げたのである。
首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成している。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としている。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つである。中国や日本との長い交流の歴史があったため、首里城は随所に中国や日本の建築文化の影響を受けている。正殿や南殿、北殿はその代表的な例である。
首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもあった。また、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあった。さらに、首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍していた。首里城は文化芸術の中心でもあったのである。
1879年(明治12)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われた。1930年代には大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼した。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなったが、大学移転後に復元事業が推進され現在に及んでいる。復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしている。2000年12月には、首里城跡が世界遺産に登録された。
~首里城公園より引用~
2.首里城の現在
平成4年(1992年)は首里城の復元が完了し、「首里城公園」としてオープンした記念すべき年となる。その後、年度別入園者数では平成18年(2006年)をピークに減少傾向にあったが、ここ近年では再び右肩上がりに回復しているようだ。考えうる理由としては、これまでほとんど訪問していなかった外国人観光客が近年数多く来沖するようになり、首里城公園としてもインバウンド客を取り込むようになったことが1つとして考えられる。
実は筆者が子供のころに首里城公園を訪れた時は、今ほど“グローバル化”もしておらず、特段混雑している印象も無かった。しかし、2019年2月に再び訪れた時(実に15年ぶり)はスロープや駐車場など敷地全体が整備されており、入場数向上のために、首里城公園側が力を入れたことが推測される。またインバウンド客もアジア圏からの団体客が非常に多いように感じられた。 余談にはなるが県外からの首里城の印象として、2000年の九州・沖縄サミットにて当時首相であった森喜朗氏が各国の首相と並んで写真に写っていた場面を思い浮かべるのだろうか?
3.首里城火災について
2019年10月31日未明、「あれほど呆気にとられる出来事は今後無いのではないか。」そう感じるくらいの出来事だった。筆者が情報を知り得たのはテレビからではなく、今どきのSNSツールであるTwitterでの速報だった。
その後、現地住民が撮影した動画からその状況を窺い知ることができたこともまた一つの時代の流れだと感じる。実際、朝のテレビ番組でも速報として流れたが火災発生が深夜2時40分であることを考えるとかなり遅い方であり、SNSの持つ「速報性」を実感する出来事でもあった。(ちなみに朝のテレビ番組で流れた首里城炎上の映像も、結局は個人が撮影してTwitterに投稿した動画に対してテレビ局が提供依頼を行うことが多く、SNSとマスメディアとの親和性が強いことが伺える。)
深夜2時40分の火災発生からおよそ11時間後に鎮火することとなったが、燃えやすい油を資材に利用していたことや、放水銃の機能不全など防火対策の観点から問題視されることとなった。今回の出来事は悲劇ではあるのだが、他県にも存在する重要文化財の防火対策について、首里城を例に今一度議論して頂ければ幸いである。
4.首里城のこれからについて
首里城正殿の消失から丸1か月ほどになる。
各地では義援金の提供や募金活動も引き続き行われており、
とあるクラウドファンディングでは目標金額1億円のところ、僅か数日で達成したとのこと。県内外の個人・企業・著名人、皆様からのご支援には一個人ながら感謝を申し上げたい。
しかし、見通しは決して明るいばかりのものではなく、現在でも首里城の有料エリアには入場制限がかかっており、首里城近くの飲食・お土産店の売上は8~9割減との報道もある。勿論、そこで働く従業員や首里城を案内するガイドも仕事も激減し、離職の可能性もあるなど暗い話も存在する。沖縄県としても首里城復興に関し、復興対策チームを設置するなど取り組んでいるが、ソフト・ハード面から同時に取り組んでいくことが今後必要になってくるだろう。その為には国との協力が不可欠になってくるが、一つ復興のカギとなりそうなのが「テクノロジー」だと予想している。
5.最後に
一個人の感想になってしまうが、やはり沖縄県民にとっての首里城は「沖縄の誇り=アイデンティティー」という意識を今回の一件でより一層強く感じることが出来た。その理由として以下の3点が挙げられる。
①首里城が沖縄唯一の現存する城であること(形として存在している)
②沖縄戦後、復興までのプロセスに数多くの関係者が関わっていたこと
③現在でも首里城祭を中心としたイベントなど、県民が首里城と関わる場面も多いこと
筆者としては特に①の要素が強いと感じる。沖縄県には城址は各地域に存在するものの、城そのものは首里城にしか存在しない(現存ではないのだが・・・)。
今回の火災で計5度目の消失となるが、そのたびに何度も復興した歴史があるので、また前を向いて頑張って欲しいところだ。
次回再興する首里城正殿がそのままの形で復興するのか、はたまた戦前の灰色なのか、現段階では不明だが一県民として今回の出来事を悲劇としてだけでなく、今後の対策事例の1つとして前向きに捉えていきたいと思う。
【寄稿文】知名 佑樹
協力(敬称略)
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