はじめに 記事をお届けするに当たり、今夏、関東・東北地域を直撃した、強烈な台風19号と、続く21号の記録的な豪雨で、千葉や栃木、福島など5県の34河川で浸水被害や土砂災害により亡くなられた方々を始め、多岐に亘って被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。また、このたび我が国の世界遺産である沖縄のシンボル首里城の正殿等主要部分の全焼被害が発生。やりきれぬ国民的ショックも癒えぬ中、重ねて2019年12月4日、アフガニスタン東部で長年医療と共に当地に用水路を完成させた国民的英雄、中村哲医師の暗殺事件が続きました。余りにも大き過ぎる一連の悲報に暮れた昨今です。今私達は世界平和の為に何が出来るか…?貴方が遺した後姿から一人ひとりが何かを学び取り、その実践こそが御恩返しに繋がるものと思います。謹んで哀悼の意を捧げつつ。合掌
2020 年に放送されるNHK大河ドラマは「麒麟がくる」の主人公「明智 光秀」。 これまで主役として取り上げられたことは皆無。人気者織田信長の引き立て役、しかも裏切者として歴史の闇に葬られてきました。また明智光秀前半生の姿は、殆ど知られていませんし、それでも気にも留められませんでした。むしろ、その名前を聞くも語るも憚ばかられていたのでは? 何故今頃「明智光秀」なのか?そして時代が求めているものとは・・・ゆかりの地として、 生誕地のひとつである…岐阜県大垣市上石津町を訪ね、現地で語り継がれている光秀の人物像と、私達が知っているソレとの間には何やらズレがありそうですね…さて、さて、これから何事が起きるのやら・・・?
2020年その物語は始まる・・・
「時は今、天が下知る五月哉」
織田信長公(左)と明智光秀公(右)
多羅城は、大垣市上石津多良地区にかつてあったと推察される戦国時代の城館です。関ケ原の戦い以前、この地を所有していた関一政が多羅(良)城を築いたとされ、築城時期は天正年間とも慶長年間とも言われています。
しかし、明智光秀が多良で生誕したとされる史料には、“多羅は進士家の居城”とあるため、関氏以前から多羅城は存在していた可能性があります。慶長5年(1600)、関ケ原の戦いの後、関一政は伊勢国亀山(現亀山市)に移封となり、代わって高木貞利がこの地に転封され旗本となりました。
多羅城の場所等の特定には至っていませんが、推定される場所が複数あります。宮の西高木家陣屋跡や羽ケ原の城ケ平、上多良の城屋敷、松ノ木の城山などが城跡とされる場所で、それぞれの地名に「城」の名が今も残されています。
明智光秀は、40歳を過ぎ、織田信長の家来となって頭角を現してから初めて歴史の表舞台にその名を残します。前半生の姿が全くと言っていいほど解明されておらず、どこで生まれ誰の子なのかも定まっていません。
そのため、現在では数少ない史料をもとに、美濃の守護・土岐氏一族の出身とするものが通説となるも、生誕地については諸説あります。ここ、大垣市上石津町多良地区にかつて存在したとされる多羅(良)城も、生誕の地のひとつに考えられています。
謎多き人物「明智光秀」はどこで生まれたのだろうか?
可児市
明智城跡
明智光秀の居城があったとされる明智城や光秀の位牌が収められた天龍寺があります。
瑞浪市
八幡神社
瑞浪市の八幡神社には、光秀が産まれた時に産湯として浸かった井戸があったとして伝わっています。
恵那市
龍護寺 明智光秀の供養塔
出自の地とされる明智城跡があります。龍護寺には光秀の供養塔が建てられ、光秀の直筆が伝わります。
山県市
明智家の墓 桔梗塚
土岐四郎基頼と地元の豪族中洞源左衛門との間に生まれ、後に可児の明智氏の養子に入ったのが光秀とされる伝承が残ります。
明智一族 宮城家相伝系図書(東京大学資料編纂所)
明智光秀は、1528年8月17日石津郡多羅に生、多羅は進士家の居城、母は明智家当主「明智光綱」の妹で、明智家当主光綱に子供が無かったので、養子として明智城に入った。幼かったので、光綱の弟、叔父の兵庫頭光安入道宗寂後見とした。
弘治2年(1556)9月明智城落城後、しばらく浪人し、のち足利義昭公に仕え、その後織田信長に仕えた。天正10年(1582)6月13日夜、小栗栖に於いて死亡。年55歳。
明智光秀の母は、明智家当主「明智光綱(光隆)」の妹で、石津郡多羅を居城としていた進士信周の嫁にきたが、兄に子がなく、自分の次男を兄の養子として渡した。これが後の明智光秀だとされます。
明智系図 続群書類従 塙保己一 編
光秀は明智光隆と妻との間に生まれ、その出生の地は美濃多羅城。光秀の出生の地は多羅城と書かれています。
「明智光秀生誕の地 多羅城」企画展開催中!(大垣市)
上石津郷土資料館では、特別企画展「明智光秀生誕の地 多羅城」を開催しています。明智光秀の前半生については、解明されていない部分が多く、生誕地については諸説ありますが、大垣市上石津町多良地区にかつて存在されたとされる多羅城も、生誕地のひとつに考えられています。同館は、国史跡西高木家陣屋跡に建つ資料館で、「島津の退き口」※に関する資料も展示されています。ぜひ、ご来館ください!
※「島津の退き口」
慶長5年(1600)9月15日(新暦10月21日)午後、関ケ原合戦で西軍が総崩れになる中、最後まで戦場に残っていた島津義弘・豊久隊は、敵中突破による前進退却を敢行し、多大な犠牲を払いながらも大将の義弘を薩摩に帰国させることに成功しました。大垣市上石津町は「島津の退き口」ゆかりの地になります。
島津豊久(1570~1600)
島津四兄弟の末弟・島津家久の嫡男。通称・又七郎。日向佐土原28600石の城主。
初陣は父・家久が龍造寺隆信を討ち取った沖田畷の戦いで、朝鮮出兵にも従軍。慶長5年、参勤のため上方滞在中に石田三成が挙兵、やむなく伯父・義弘とともに西軍に属し、関ケ原では島津隊の先手を務め、「島津の退き口」では殿(しんがり)にまわって奮戦、重傷を負い、自刃して果てました。ちなみに、豊久を名乗ったのは最後の数カ月のみで、それまでは忠豊と名乗っていました。
白拍子谷(島津豊久自刃の地)
烏頭坂で重傷を負い、兵の助けを借りながら勝地峠を越えた島津豊久が、力尽きて自刃したと伝えられる場所。現在は川のほとりに小さな石碑が立つのみです。
瑠璃光寺・島津豊久の墓
瑠璃光寺は島津豊久の菩提寺で、本堂に豊久の位牌が収められているほか、ゆかりの梵鐘もあります。また、寺の裏手の森(通称・カンリンヤブ)
の中には、島津塚(薩摩塚)と呼ばれる豊久の五輪塔が祀られています。
開催期間 現在開催中~平成32年12月20日(日)
開催場所 上石津郷土資料館 企画展示室(大垣市上石津町宮237-1)
展示内容 明智光秀や多羅城に関連した貴重な資料等の展示
お問い合わせ 大垣市上石津郷土資料館 電話:0584-45-3639
近世の面影を残す貴重な遺跡
国史跡 西高木家陣屋跡
西高木家陣屋跡は、近世陣屋として良好に残る石垣・墓所・地下遺構・建造物などの現地遺構に加え、絵図類を含む膨大な量の古文書群が残り、近世幕藩領主の姿を豊富な資料によって現在に伝える全国的にも貴重な遺跡として、平成26年国の史跡に指定されています。
高木家は、大和高木村の出で、伊勢を経て、享禄元年(1528)に美濃に移ったとされます。齋藤道三・織田信長に仕え、美濃南部の駒野・今尾を拠点としました。一時甲斐に赴きましたが、関ケ原の戦いの功により、慶長6年(1601)に美濃の時・多良(現大垣市上石津町時・多良地区)の地を拝領し入郷、西高木家・東高木家・北高木家三家それぞれで陣屋を構えました。
高木家の石高は三家で4,300石でしたが、交代寄合として大名の格式を許され特別な役儀を負いました。まずひとつに、時・多良地区は美濃と近江・伊勢との国境で、高木家はその警固にあたりました。
また、木曽三川の治水行政にあたる川通御用としても重要な役目を負い、宝永2年(1705)より幕末まで、水行奉行として美濃・伊勢・尾張の諸河川の管理にあたりました。江戸時代中期、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)を分流した難工事・宝暦治水にも工事監督責任者のひとりとして深く関わりました。
交通アクセス
[バスご利用]
・JR大垣駅南口4番のりばから 名阪近鉄バス多良・時行き「宮」下車、徒歩2分
・JR関ケ原駅から名阪近鉄バス 牧田(上野)行き終点で多良・時行きに乗り換え「宮」下車、徒歩2分
[高速道路ご利用]
・名神高速道路関ヶ原ICから 国道365号線で25分
・名神高速道路養老スマートICから 県道227号線・国道365号線で20分
・東名阪自動車道桑名ICから 国道421号線・365号線で1時間15分
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
大垣観光協会
〒503-0923 岐阜県大垣市船町2丁目26番地1奥の細道むすびの地記念館内
TEL:0584-77-1535
大垣市 上石津郷土資料館
〒503-1625 大垣市上石津町宮237-1
電話:0584-45-3639
瑞浪市観光協会
〒509-6121 岐阜県瑞浪市寺河戸町1043−2瑞浪商工会議所内
電話: 0572-67-2222
一般社団法人 岐阜県観光連盟
〒500-8384 岐阜県岐阜市薮田南5-14-12岐阜県シンクタンク庁舎4階
電話番号 058-275-1480
徳川美術館 〒461-0023 愛知県名古屋市東区徳川町1017 電話:052-935-6262
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
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読者の声
こんな嬉しい反響が届きました。
いつも楽しみに拝読させて頂いております。
(県外の情報も目に入れることはとても貴重です。)
さて今回の内容ですが
やはり「歴史」なるものは勝者が作るモノだと言われており、かの明智光秀もその例に漏れず裏切者として描かれることが多い印象を受けます。
ただそうした史実を基にした歴史書は偏る傾向にあるので、今回の大河ドラマではこれまでの明智像を一新する内容になるかと期待しております。
(また同時に大河ドラマ自体も放映の歴史が長いために、コンテンツ不足になりつつあり、視聴率維持とコンテンツの新鮮さの両立を図るのが一個人ながら難しそうだなぁと感じた次第でございます。)
ご紹介頂いているスポットも今回の大河ドラマをきっかけに「聖地巡礼化」の経済効果も見込めるかと思われますので、観光の側面からも期待しております。
2019.12.18.14:50
記事興味深く拝読させていただきました。
記事にてご指摘の通り、歴史は勝者により作られるため、
明智光秀公は、すっかり「悪役」「裏切者」になってしまったと感じております。
以前に読みました書物によりますと、明智光秀公は自身の所領地においては優れた為政者であったようでございます。歴史書の一面や、片一方の伝聞のみを信じてはいけないぞ、改めて自戒いたしました。
2019.12.18.18:59
現在、浜松で生活しております。実家は琵琶湖のほとりです。と申しても福井県に近い湖北になりますが、年末は帰省致します。何時も、関ケ原から伊吹山を右に見ながら「ここを織田軍が駆け抜けたのか~と想像して」山東町・長浜を抜け帰ります。折角の機会なので、途中下車して明智光秀生誕の地を拝見したいと思います。
情報ありがとうございました。雪が積もらないといいのですが・・・
2019.12.19.0:01
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