はじめに 記事をお届けするに当たり、今夏、関東・東北地域を直撃した、強烈な台風19号と、続く21号の記録的な豪雨で、千葉や栃木、福島など5県の34河川で浸水被害や土砂災害により亡くなられた方々を始め、多岐に亘って被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。また、このたび我が国の世界遺産である沖縄のシンボル首里城の正殿等主要部分の全焼被害が発生。やりきれぬ国民的ショックも癒えぬ中、重ねて2019年12月4日、アフガニスタン東部で長年医療と共に当地に用水路を完成させた国民的英雄、中村哲医師の暗殺事件が続きました。余りにも大き過ぎる一連の悲報に暮れた昨今です。今私達は世界平和の為に何が出来るか…?貴方が遺した後姿から一人ひとりが何かを学び取り、その実践こそが御恩返しに繋がるものと思います。謹んで哀悼の意を捧げつつ。合掌
姥神(うばがみ)とは
姥神の定義の説明の前にまず、奪衣婆の説明をさせていただきたい。 奪衣婆とは、死後にあの世へ渡るための三途の川の岸辺にいて、亡者の衣を脱がせる存在である。なぜ脱がせるのかと言うと、その衣を衣領樹(えりょうじゅ)と呼ばれる木の枝にかけるためである。そうすると生前の罪の大きい者は枝が大きく下がり、小さい者はほとんど動かない。亡者の罪はその衣に重さとなって染み込んでいることになる。衣領樹は罪を量るはかりであり、それを審査するのが奪衣婆である。
新潟県阿賀野市の出湯温泉
華報寺共同浴場のお湯は見るからに気持ちよさそうですね~朝、昼、夜と一日3回温泉に入られる地元の方もおられるとか…?長生きできる筈です・・・
華報寺共同浴場
開湯から1200年。 県内最古の歴史を誇る弘法大師伝説の温泉。そのお湯は、今もこの華報寺境内の共同浴場の源泉として湧き出ています。
男女浴場仕切り壁の岩上には弘法大師像が見守っておられます。
新潟県阿賀野市、五頭連峰の麓に五頭温泉郷があり、そのひとつが出湯温泉です。華報寺を中心に湯治場がつくられ、古くから湯治客で賑わっていました。
開湯は大同4(809)年に弘法大師(空海)が五頭山を開山したとき、出湯温泉で杖をついて湧出させたとされ、新潟県では最も古い歴史がある温泉です。
周辺からは縄文時代の土器や鎌倉時代の石碑などが見つかっていますので、少なくとも古くから集落が形成されていたと考えられます。
羽黒地区の優婆堂
出湯温泉羽黒にある姥堂
幕の下ろされた厨子に祀られています
この出湯温泉の羽黒地区に優婆堂があり、現在も信仰を集めています。中にある姥神像は基本的に秘仏であり、常には公開していません。しかし毎月20日にご祈祷するときに公開しています。特に安産にご利益があるとされ、この堂から少し先にある高徳寺が堂の管理をしています。
信者により奉納された小姥神像
その縁起では、天平5(734)年に行基が出湯村を訪れ、霊木で仏像を彫ろうとしたとき、「我は三途河に住む懸衣婆なり、極悪憤怒の表情をしているが、内は慈愛に満ち悲しみの涙を流している。自分の姿を彫って民を救え。」との霊感を受け、毘盧舎那仏の化身と思いその姿を彫ったとされます。
毘盧舎那仏は大日如来のインド名、ビローチャナのことです。つまり、奪衣婆(懸衣婆となっていますが、奪衣婆のこと)の正体は大日如来だとしています。
その後、天正14(1586)年、華報寺の和尚により、高徳寺を開いて現在の場所に堂が建てられたといいます。
また、江戸時代後期(文政4(1821)年~天保12(1841)年)、肥前国平戸藩(長崎県)松浦静山によって書かれた『甲子夜話』六十二巻六に、三途河姥大像(越後国)とあり、「越後国蒲原郡デヨと云処に、十三間四面の広堂あり。その中物なくして、中央に大像あり(長け人の立るが如し)。三途河の姥子にして独坐なり。」とあり、最後に「然ればデヨは出湯の訛ならん。」と締めくくられています。
この文では、長身の人が立ったぐらいの大きさの、坐った状態の姥像があるとされていますが、現在の像はそこまで大きくはないようです。
天から優婆尊が降りてくる絵が飾られています
優婆尊掛け軸(30センチくらい)
優婆尊お札
優婆尊御守
堂のなかには、天から優婆尊が降りてくる絵や信者によって奉納された小型の姥像が祀られているほか、その姿が描かれたお札やお守りなどが販売されています。
古くから信仰
姥神像を秘仏としているところは、大町市西正院、新潟県十日町市大慶院と共通しています。また、縁起の極悪憤怒の奪衣婆だが本当は大日如来というところはその12でご紹介した大慶院と同じです。地名が羽黒というところが出羽三山との関係も気になるところですが、おおむね立山と似た信仰形態と言っていいのではないかと考えられます。
優婆尊縁起
さらに縁起では、姥神像を祀ったのは奈良時代の734年が最初であり、これが本当だとすると、姥神信仰で一番古いこととなります。
しかし、立山のものは残っている姥神像で一番古いものが室町期だったというだけで、信仰はもっと古くからあったと考えられますので、一概には言えません。また、三途の川にいる奪衣婆のことも、その歴史を鑑みると、奈良時代に認識されていたかは疑問が残ります。
ただ、甲子夜話に出湯姥神像のことが書かれているということは、長崎にもこの出湯温泉、優婆堂のことが伝わっていることになり、かなり有名だったことが推察され、その信仰も広範囲だったことがうかがえます。
参考文献
「甲子夜話4」、松浦静山、平凡社、十九七八年
続く・・・
寄稿文
廣谷知行(ひろたに ともゆき)
姥神信仰研究家
協力(敬称略)
五頭温泉郷旅館協同組合
〒959-1928 新潟県阿賀野市村杉3946-163五頭山麓うららの森 情報発信館内
電話 0250-61-3003
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