はじめに 記事をお届けするに当たり、昨夏、関東・東北地域を直撃した、強烈な台風19号と、続く21号の記録的な豪雨で、千葉や栃木、福島など5県の34河川で浸水被害や土砂災害により亡くなられた方々を始め、多岐に亘って被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。また、このたび我が国の世界遺産である沖縄のシンボル首里城の正殿等主要部分の全焼被害が発生。やりきれぬ国民的ショックも癒えぬ中、重ねて2019年12月4日、アフガニスタン東部で長年医療と共に当地に用水路を完成させた国民的英雄、中村哲医師の暗殺事件が続きました。余りにも大き過ぎる一連の悲報に暮れた昨今です。今私達は世界平和の為に何が出来るか…?中村氏が遺した後姿から一人ひとりが何かを学び取り、その実践こそが目指した真の世界樹に繋がるものと思います。謹んで哀悼の意を捧げつつ。合掌
ようこそ蓼科 親湯温泉へ
蓼科親湯温泉は、開湯1600年頃武田信玄の隠し湯として、地元の方々の湯治場として愛された場所でした。江戸時代は、蓼科エリアには親湯温泉(蓼科)、滝の湯温泉(蓼科)、渋の湯(奥蓼科)の3軒しかありませんでした。古くから地元湯川村の村営で営まれておりましたが、大正十五年に初代柳澤幸衛が 旅館業を営みましたのでその年を創業年としております。
蓼科 親湯温泉の四季
知らぬ間に…蓼科 親湯温泉の季節はいつしか巡り春から初夏へと…
蓼科 親湯温泉周辺の夏の涼風景
蓼科は比較的湿度が低く、当館 蓼科 親湯温泉 周辺は、真夏でも最高気温が26~27℃ぐらいの日が多く、清々しく感じられます。
秋の蓼科 親湯温泉~紅葉のプロムナード~森の妖精たちも冬支度・・・季節よ止まれ~
冬がまたいい !雪が降ると無精に気がハヤる人もあり。露天風呂で瞑目しながら温まり、どてら羽織って窓越しに雪景色を眺む。熱燗傾けちびりちびり・・・イイね〜
さあ~!いつでもお入りいただけますよ~今年も白雪の舞う露天温泉へ
蓼科親湯温泉のポリシーとは
旅とは日常を離れ、違った場に自分を置いてみることによって、日ごろの何気ないことに感謝したり、新しい発見をすることが出来る素晴らしい行いです。
―どんな境遇にある方でも、出来うる限り旅を楽しんでいただきたいー
蓼科親湯温泉のポリシーです。
私達はご高齢のお客様、体に障害のあるお客様、赤ちゃん連れのご家族など、どなた様にも何の心配もなく、心からくつろいで蓼科親湯温泉での滞在を愉しんでいただくために出来うる限りの様々なサービスを提供させていただいております。
蓼科親湯温泉の館内大浴場
湯の注ぎ口(吐水口)には、特別な力があるという石を配し、夜になると目に温かなオレンジの灯が、ほのかに身体を照らし、深い寛ぎと安らぎに満ちた湯浴みへと誘ってくれます。
屋外には屋内に続く露天風呂が…せせらぎや、木々を渡る風、夜空を流れる星の音…自然と対話しながら心ゆくまでお過ごしいただけます・・・
清掃
業務の多くはお客様との接点が少なく、直接お客様の喜ぶ姿を見ることがあまりできないのが残念ですが、滞在中お客様が気持ちよく、ゆっくりとくつろげる、そのための館内、お部屋の清潔さはとても重要だと捉えております。
幸いにも、我々が館内でお会いすることが出来たお客様一人一人に元気な笑顔でご挨拶すると、お客様も最高の微笑みを返して下さることも、何より仕事の励みになっております。多くのお客様がまた蓼科親湯温泉にお帰りいただけるように、今日も心を込めてお部屋を整えてまいります。
ゆかりのある文人たち
蓼科親湯温泉と文学との出会い
きっかけは篠原志都児(しのはらしずこ 本名 圓太 えんた)でした。
篠原志都児とは、アララギ派の歌人(蓼科親湯温泉から車で10分の湯川出身)で野菊の墓で有名な伊藤左千夫(さちお)を師匠に持ちますが、地元でもあまり知られておりません。その篠原志都児が、伊藤左千夫や平福百穂(ひらふくひゃくすい)を蓼科親湯温泉へ連れて来た事が、今日の蓼科を創り上げた物語の始まりでした。
それ以前の蓼科親湯温泉は交通の便もなかったことから 地元の湯治場としてひっそりと存在するだけでした。
それが、蓼科をとても気に入った伊藤左千夫は、明治42年「蓼科山歌」10首を蓼科親湯温泉で詠みます。そして、この10首は志都児に与えられ茅野市有形文化財に指定されています。(このうち2首は当館の裏山に歌碑として設置されております。)
その後、伊藤左千夫を中心にこの地で歌会が開催されるようになり、左千夫を通じて多くの文人歌人がこの蓼科の地を知ることとなり蓼科親湯温泉は文人歌人達の梁山泊やトキワ荘、いわゆるインキュベーター(孵化装置)となっていったのです。
蓼科の出湯の谷間末遠く雪の御岳今日さやに見ゆ 篠原志都児
信濃には八十の郡山ありといえど女の神山の蓼科われは 伊藤左千夫
島木赤彦、斎藤茂吉、土屋文明、高浜虚子、柳原白蓮をはじめとした多くの文人歌人達が蓼科親湯温泉の歌や俳句を残してゆきます。
太宰治が新婚旅行で蓼科親湯温泉を選んだのもこの様な素地があったからなのかもしれません。
世界的な映画監督小津安二郎監督が、蓼科に別荘を持ち創作に勤しんだことは有名な話であり、小津監督の日記を集めた“蓼科日記抄”には蓼科親湯温泉の記述が17箇所にも及んでいます。
その後の蓼科は、多くの文化人や知識人が別荘を構えるようになり、避暑地として全国的に有名になってゆきました。全ては、篠原志都児が伊藤左千夫を蓼科親湯温泉に連れてきたことから始まったのです。よって、蓼科親湯温泉は、篠原志都児、伊藤左千夫、平福百穂の作品を中心に展示をさせて頂いております。
文学を背景に持つ蓼科の黎明期、お見知りおき頂けましたら幸いです。
創業大正十五年 蓼科親湯温泉
四代目 柳澤幸輝
蓼科と文人たち
明治から昭和初期にかけて、多くの文化人が集い“蓼科文学”を作り上げた一大文学保養地・蓼科。
蓼科親湯温泉は、多くの歌人や作家がぬる湯に浸かり、文学談義を繰り広げた文化人の常宿でした。蓼科の自然の美しさを愛で、感嘆し、多くの作品が生まれましたが、それと同じ位に、またこの蓼科という舞台で恋のはかなさ、美しさ、哀しさを作品に謳い上げてもおります。文人、歌人たちのそんなエピソードをご紹介いたします。
太宰 治の新婚旅行
太宰を散歩に誘っても蛇がこわいといって、着いたきり宿に籠って酒、酒である。
これでは蓼科に来た甲斐がない 『回想の太宰治』津島 美和子
井伏鱒二の媒酌で美知子と再婚し、自堕落な生活を立て直そうとした30歳の太宰治。
太宰と美知子は、結婚後間もない八十八夜に信州に出かけ、諏訪、蓼科を訪れました。
1泊目の諏訪で、太宰は酒をとり寄せて乱酔し、26歳の美知子は「テーブルクロスを汚したりして宿の人の手前恥ずかしかった」としています。その翌日、蓼科に着いた太宰は、さらに酒を求め、美知子は「この人にとって自然あるいは風景は、何なのだろう。…おのれの心象風景の中にのみ生きているのだろうか」と、盲目の人と旅するような寂しさを覚えました。
それでも、太宰は美知子とこれまでとは比べものにならないほど、穏やかで安定した生活を送り、多くの作品を著します。
いよいよ3度目の心中のとき、太宰は「美知様 お前を誰よりも愛していました」と遺書を残しました。若い愛人と玉川上水に入水した太宰は、39歳で帰らぬ人となりました。
柳原 白蓮のすべてをかけた恋
わが命惜しまるるほどの幸いを 初めて知らむ相許すとき
華族として生まれ、大正天皇の従妹にあたる柳原燁子(あきこ)(のちの柳原白蓮)は、「大正三美人」と称された美貌の歌人でした。没落した実家を救うため、26歳で九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚した白蓮は、意に染まぬ生活のなかで、短歌の才能を発揮します。
34歳で宮崎龍介(みやざきりゅうすけ)と出会ったとき、白蓮の人生は変わりました。7つ年下の龍介との恋は、当時の姦通罪に問われることすら恐れない、捨て身のものでした。
そして大正10年、白蓮は伝右衛門への絶縁状を新聞に公開し、宮崎龍介と駆け落ちをします。これが世に騒がれた『白蓮事件』です。白蓮はすでに龍介の子を宿していました。実家に連れ戻され、監禁状態のなかで、龍介の子を生んだ白蓮。
2人が結婚したのは、事件から2年後のことでした。夫婦になった2人は、蓼科に別荘を持ち、2人の子と幸せに暮らします。白蓮と龍介は、互いに交した700通余の恋文を、すべて保管していました。
瀬戸内 寂聴が愛した激情
親湯入口というバス停から、ヴィーナスラインを外れて一本道を下りてゆくと、
道の左下方に川が流れ、川の向こう岸にお城のように聳えているのがホテル親湯であった
『ここ過ぎて』瀬戸内 晴美
瀬戸内寂聴が本名の瀬戸内晴美だった時代、白秋と3人の妻を描いた『ここ過ぎて』の取材で、親湯を訪れています。
夫に履き物を隠され、それでも恋人に会いたくて裸足で走り出し、そのまま帰らなかったという逸話をもつ晴美は、人がよく、恋に奔放な妻・章子に、ことさらに共感を寄せました。
「恋のない世になにがあるでせう」といった章子は、白秋に会ったその日に身を投げ出し、清貧時代の白秋を支えた情熱の詩人です。
白秋の自作序文に、「二人はただ互に愛し合ひ、尊敬し合ひ、互に憐憫し合つた」とありますが、ようやく家を建てた祝宴の席で、章子は出入りの記者と駆け落ちしてしまいます。それからの章子は結婚と離婚を繰り返し、次第に狂気に呑まれていきました。
『ここ過ぎて』には、蓼科へ逃れた章子が白蓮の別荘で静養し、ひとり立ちしようとした姿が描かれています。
伊藤左千夫の純情
秋風のいづれはあれど露霜に
痩せし野菊の花をあはれむ 『野菊の墓』
伊藤左千夫は、蓼科を愛した代表的な歌人の一人です。
「恋の悲哀を知らぬ人には、恋の味を話せない」と語った左千夫は、数多くの短歌と、一途な純情にあふれる小説を残しました。
伊藤左千夫の処女作である『野菊の墓』は、のどかな農村で起こる、恋を知り初めた一組の男女の物語です。
15歳の政夫と17歳の民子は、山を行く道すがら、お互いを野菊、りんどうに例えて心を通わせました。民子のモデルは、牧場に勤めた若かりし頃の左千夫が想いを寄せ、結婚を申し込んだ「きさ」と言われています。
きさの縁者に申し込みを断られた左千夫は、結婚をあきらめましたが、その15年後、きさが嫁ぎ先の家で亡くなったことを知ります。
その2年後、左千夫は『野菊の墓』を著しました。
左千夫は、自ら『野菊の墓』を朗読する際、涙に声をつまらせることしきりだったといいます。
土屋文明の初恋の人
墨うすくにじむ習字をただに見ぬ
一つ机に並ぶ少女を 『青南後集』
28歳で諏訪へ赴任し、処女歌集『ふゆくさ』を表した土屋文明。
文明には子どもの頃、すでに決まった人がいました。それは小学校同級の塚越エツ子です。
村の素封家であるエツ子の父は、幼い文明に「どうだ、エツ子を嫁にやろうか」と声をかけ、それは村中のうわさになりました。成長するにつれ、文明とエツ子も、それを意識するようになったといいます。
ある日、下校途中の文明の行く先で、女生徒が道をふさいでいました。戸惑う文明を目に留めた子が、「この子は通してやりなよ。エッちゃんの親類の子だよ」と言います。だまって歩を進めた文明の目に、顔を赤くして立つエツ子が映りました。
「どこの子だね」「エッちゃんのむこさんだんべ」という声も聞こえ、文明は足を早めずにはいられなかったといいます。
文明が中学二年のとき、エツ子は病を得て亡くなりました。
のちに、文明はエツ子の姉テル子と結婚します。
島木赤彦の最初の弟子
夏草のいよよ深きにつつましき
心かなしくきはまりにけり 『赤光』
上諏訪村(現諏訪市)に生まれた島木赤彦の恋は、赤彦が校長を勤めた塩尻市の広丘小学校に、静子が新卒教師として就いたことから始まります。静子は、単身赴任の赤彦と一つ屋根の下に起き伏しし、朝夕の食事をともにしました。
最初の妻を亡くした半年後に、その妹と結婚し、愛情にかけた生活を送っていた33歳の赤彦と、自らも歌をつくり、赤彦を敬愛していた19歳の静子。2人は分校へ出かけたある日の夏に、迷い込んだ草原で互いの愛を認めます。
赤彦がその日を詠った上記の一首を、「…接吻にもならぬ、握手にもならぬ、併し接吻にも、握手にも、啼泣にも、只一髪を隔てた苦悩の溜息である…」と、解説しています。
恋仲になった2人は、多くの相聞歌を詠みましたが、6年後、赤彦が上京して家族のもとへ去ると、赤彦と静子の関係は終わりを告げました。
斎藤茂吉の最後の女性
くちびるのあかきがなかに入りて行く
牛の乳さえあなねたましも
医学、短歌と2つの道を選んだ斉藤茂吉は、53歳のとき、正岡子規の33回忌歌会で、24歳の長井ふさ子と出会います。年の離れた2人の恋は、茂吉はもちろん、ふさ子にとっても生きがいでした。
ふさ子が受けた150余の手紙のうち、茂吉の没後10年たって公開された120余には、茂吉の恋情があふれ出ています。「…食ひつきたい! …ふっくらとした、すきとほるような、搗きたての餅のやうな、尊い、有り難く、甘い味ひのしたあのへん!」「これは非常なお願ひですけれども、東京に居られるとき、Y翁と御二人ぎりで散歩されたり、トンカツ食べられたり、映画見たりしないで下さいませんか…」
しかし、2人の仲を思いつめたふさ子は、父の勧めで見合い、結納までします。「他の人の愛情を受けることは苦痛」と婚約を破棄しました。ふさ子は、茂吉との関係も解消し、歌から離れました。ふさ子は生涯、嫁ぐことはなかったといいます。
高浜虚子の愛弟子
虹立ちて忽ち君のある如し
戦時中、浅間山麓の小諸に疎開した俳人・高浜虚子は、晩年、病弱ながら美しい森田愛子という弟子を得ます。若く多感な愛子は、病気が重くなるほど、生きる希望を句作に見出し、虚子は彼女の境遇を知るにつれ、なお深くいとおしみました。
虚子が事実をまったく欺かぬという態度で著した写生文『虹』には、愛子とその恋人の柏翠が小諸の虚子を訪ねてきたこと、虚子が愛子の家を訪れたことが描かれています。
『虹』に続く一連の小説には、病の果てに、愛子が31歳の生涯を終えたこと、その一周忌までが描かれています。
信濃には八十の高山ありと云えど女の神山の蓼科我れは 伊藤佐千夫
参考
太宰治の面影をたずねて~津軽へ~
青森県北津軽郡金木村(現五所川原市金木町)の実家
現在は、国指定重要文化財として青森県五所川原市により保存・管理されています。
国指定重要文化財「斜陽館」は、太宰治記念館になっており見学できます。
お問い合わせ太宰治記念館「斜陽館」電話 0173-53-2020
囲炉裏の間。天井が高いですね~飛騨高山の日下部邸と同じくらいありますね~
仏間。恐らくこの和室だけが他の和室と竿天井の、竿の流れが違うはずだが・・・
無垢材で創られた重厚感のある木製廻り階段
二階の洋室。洋室はほかにも造られています。
旧津島家住宅は,津軽地方有数の大地主であった津島家(太宰治の本名は津島修治)の本邸であります。
南北に走る表通りに西面して主屋があり、主屋北東に文庫蔵、東背後に中の蔵、米蔵が建ち並び、宅地正面及び両側面西半に煉瓦塀を廻らしています。
主屋は明治40年、文庫蔵は明治38年の建築で、堀江佐吉の四男斉藤伊三郎が大工棟梁を務めました。中の蔵、米蔵、煉瓦塀も同時期のものであります。
旧津島家住宅は、津軽地方の伝統的町家の形式を踏襲しつつ、創意に富んだ構成や洋風の意匠を導入し、新しい時代の邸宅の姿を造り上げています。ヒバ(東北では「あすなろ」とも、木曾では「明日桧(あすひ)」、石川県能登では「アテ」と呼ばれています。)の良材を用い,巧緻な技術が駆使された大規模な近代の住宅建築として価値が高いとともに,土蔵や煉瓦塀などがよく残り,往時の屋敷構えをよく伝えている点も貴重な建築物であります。
太宰治の生涯
故郷に建つ太宰治の銅像。懐かしい洋服に下駄…我々小学生の頃はかなりボロい服だった…
太宰治の本名は、津島修治といいます。 青森県北津軽郡金木村(現五所川原市金木町)、大地主の家に明治42年(1909年)に生まれました。
父親が地主と衆議院議員をつとめ、地元の人は「金木の殿様」と呼び、長者番付で青森県内4位に入る人物でした。
家には使用人を加え30人あまりと同居し、この生家(津島家)「斜陽館」は現在、国の重要文化財に指定されています。
小さなころから神童と呼ばれ、東京大学進学、4回の自殺未遂。
「走れメロス」「津軽」「人間失格」「斜陽」などの数多くのベストセラー作品を生み出した。
続く・・・
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
合資会社親湯温泉 〒391-0301 長野県茅野市北山4035 電話 0266-67-2020
公益社団法人 青森県観光連盟 〒030-0803 青森市安方1丁目1-40 TEL:017-722-5080
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
日原もとこ 東北芸術工科大学名誉教授 風土・色彩文化研究所 主宰 まんだら塾 塾長
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
読者からご意見をいただきましたのでご紹介いたします。
『読者の声』
蓼科には20年1500の標高に通い住みましたので、なかなか叙情の深い、しかもモダンなところで、思い出は沢山あります。 多くの温泉と、文人と、鳥や動物達と花々と四季の変化の美しさは格別です。白蓮は印象強いですね。
『読者の声』
蓼科は避暑地として有名なところだとずっと思っていたのですが、多くの文化人たちに愛された温泉があり、恋の舞台としても登場するところだと初めて知りました。蓼科にいろいろな想いが込められているとは意外でした。「斜陽館」は立派な部屋が多くて見とれてしまいます。
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