ZIPANG-4 TOKIO 2020東かがわ市~美しい日本の伝統・伝説の地~ 日本の精神文化と国土の美しさ 再発見!(その1)~白鳥神社~

香川県 東かがわ市

瀬戸内海を望む自然環境豊かな「東かがわ市」。大坂峠から大地と海山空の景観です

東かがわ市引田の古い町並み
伝統の真白な漆喰の格子組腰壁に赤壁が映える・・・「むしろ麹法」伝統醤油のかめびし屋

香川県東かがわ市「引田ひなまつり」。
子供の頃、不注意で雛壇を崩してしまい、暫くの間女の子たちは口もきいてくれなかった苦い思い出の雛祭り…来年は一度帰ってみようかな・・・故郷へ

引田に一足早い春の訪れ(引田ひなまつり)

2月28日~3月4日、「引田ひなまつり」が開催され、今年も多くの人が一足早く春の訪れを感じました。 引田の古い町並み約70軒に、お雛さまが飾られました。訪れた人は、引田の町並みを散策しながら、個性豊かなお雛さまを堪能していました。かわいい着物姿の子どもたちによるアトラクションやお接待などのイベントもあり、引田のまちを彩りました。   


前号にて一応、岩手県「気仙地方~黄金の国ジパング~」を一連のシリーズに纏めてご紹介して参りました。 次いで「花巻と宮沢賢治」を主題とするシリーズのご紹介を予定いたしております。その前に一旦小休止を入れて、以前よりのお約束、伝統のお醤油と美しい赤壁が評判の香川県にある #「かめびし屋」をご紹介したいと思います。 ご紹介にあたり、まず、所在地・香川県東かがわ市3町のお話です。 皆様の中には、上記の所在地名・東かがわ市なる地名が、耳慣れないなぁーと呟かれる御仁もおられる筈。失礼があればご容赦の程を……(実は小生も同様でしたから (笑)) 


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いま世界的に新型コロナパンデミックの真っ只中ですが、日本ではこれに追討ちをかけるように、7月初旬には「令和2年集中豪雨」と命名された災害で熊本県や岐阜県において沢山の方々が犠牲者となられ、大きな被害を蒙ったばかりです。

この度は9年前の東日本大震災において未だ復興途上にある三陸地域のニュースをお届けするに当たり、改めて犠牲となられたすべての方々へ謹んで哀悼の意を捧げるものです。

合掌

編集局記

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東かがわ市の海 透明なのに青く見え緑にも見える…瀬戸内海に神の光が降り注ぐ


香川県 東かがわ市の概要

平成15年4月1日に引田町・白鳥町・大内町の3町が合併して、東かがわ市が誕生しました。
東かがわ市は、香川県の東の端で徳島県鳴門市と接しています。

地場産業の手袋生産は、伝統産業であり、はまち養殖の発祥地、そして有名な製薬や和三盆糖などの伝統を今なお受け継ぐ、伝統と文化、自然環境豊かな市です。


地勢

東かがわ市は、香川県の東端に位置しています。
東南は東西に連なる阿讃山脈によって徳島県に接し、西はさぬき市に隣接し、東北は国立公園瀬戸内海播磨灘に臨み、高松市と徳島市のほぼ中間に位置する自然環境に恵まれた地域です。

瀬戸内海に注ぐ馬宿川、小海川、新川、湊川、与田川、番屋川などの流域に平野部が開け、市街地と田園地域を形成しています。気候は、比較的晴天の日が多く降水量が少ない瀬戸内海特有の温暖で穏やかな気候です。


引田 讃州井筒屋敷
江戸時代より醤油と酒造りを行っていた商家をリニューアルした観光施設です。建物は江戸後期から明治期に建築されたもので、往時の趣をそのままに残しています。住まいだった「母屋」は、昔の座敷や庭園の見学ができます。また、蔵を活用したショップでは特産品の買い物や地魚の食事などが楽しめます。地元の地場産業体験も楽しめます。東かがわ市引田2163

讃州井筒屋敷 外観 江戸後期から明治期に建築。庭はご自身の眼でご覧ください!


名称の由来

引田町(ひけたちょう)

引田の名の由来については、以下、過去に4つの説があります。

・坂出鎌田共済会の考古学者岡田唯吉の持論

・『八幡宮御伝書紀』による解釈

・字義的な解釈

・猪熊信男の恩頼堂一家言説


坂出鎌田共済会の考古学者岡田唯吉の持論

大正12年3月、城山・安戸池を含む国立公園指定地の申請とともに町内有志をもって「城山保勝会」が設立され、町をあげての観光開発の運動がおこった。その際、香川県で、古代史並びに考古学研究の第一人者として著名な岡田唯吉に起稿を依頼した。同氏は当町に泊まり込みで、城山・安戸池をはじめ町内各所を詳細に調べ歩き、その結果を「史蹟名勝天然記念物調査報告」(大正13年発刊)として発表した。

氏はその項で「誉田八幡宮勧請以前、この宮は引田神社と唱え、孝元天皇※1の皇子大彦命を祭神としていた」という伝承に着目し、次のように述べている。「この地の旧家に、安倍氏、阿部氏の姓ありて引田氏の姓はなけれど地名として伝えられることなれば、孝元天皇の皇子として崇神天皇の時四道将軍の一人たる大彦命の裔孫(えいそん)阿倍氏引田氏が大和京師、北岡地方に発展しその族裔の一部が大化改新のころより奈良朝ころ迄の間において東讃の地に転住したるものにあらざるか」と。 

一 新撰姓氏録孝証 安倍氏系図
一 太田亮著 姓氏家系辞書 引田氏
氏は、このニ書を引用して論じている。

※1. 孝元天皇は(こうげんてんのう、孝霊天皇18年 - 孝元天皇57年9月2日)は、日本の第8代天皇(在位:孝元天皇元年1月14日 - 孝元天皇57年9月2日)。『日本書紀』での名は大日本根子彦国牽天皇。欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。后妃:欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)との間に第一皇子:大彦命(おおひこのみこと、大毘古命) - 四道将軍の1がいる。


『八幡宮御伝書紀』による解釈

書紀には「承和8年(841)3月吉日(中略)神璽(じ)を斎(いつ)き奉り我国に帰る 急ぎ清地を求め安鎮(中略)又御宮地を改め則ち誉田の田を称え美しみて号を引田と改む 第一の若宮は八幡御宮地を賑田(にぎた)と号す 同若郎子(わきいらっこ)御社地を吉田と号す 亦梨木(なしき)と田夫 湖水を分ち御饌田(みけた)となす 之を佃田(つくだ)と号す」以下省略

この書紀は延久三戌歳(1071)の奥書をもつ忌部(いんべ)中山氏の縁起であるが、この宮が勧請されたという承和8年から近年に至るまで、他の古文書には引田の忌部氏誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の字は全く見受けられない。

初版の香川叢書には古文書の項に記述されていたが、その後の研究により、江戸中期の作というのが大方の定説となっている。だが、この書紀の中で注目したいことは、引田という地名の命名の精神である。著者は田の字に殊更のようにこだわっている。誉田(こんだ)・引田・賑(にぎ)田・吉田・佃田(つくだ)と列記したのがそれである。

察するに引田郷田地耕作者の間では、古くからの伝承があり、それらを吸収し、表現したのかもしれない。ちなみに賑田は迯田、佃田は佃として現在も残っている。この佃という地名は民俗学的にも歴史学的にも、領主の自作する土地の意に解され、書紀に記述された意に似ている。


字義的な解釈

小海山系小入谷(こにゆうだに)に貝の化石が出たり、大坂山山系で貝殻がしばしば発見されたり、かつて迯田(にげた)に「かな突きの鼻」とか、引田の古名が「網の浦」とかいう伝承など一連の地名が干潟を暗示しており「汐が引いた後地」のことで、引田という地名が発生した由来だとする説。


猪熊信男の恩頼(おんらい)堂一家言説

猪熊氏によると

引田を字義通り田を引くとしては、意をなさぬ、諸国にある「ヒケタ」の地名をまず参考にしてかからなければならない。地方にあっては、曳田(ひきた)・匹田(ひきた)・辟田(へきた)などと書かれている。しかし、引田を「ヒキタ」とも読んでいるが、「ヒケタ」と「ヒキタ」では、その語源の違っている事勿論である。引田の町名は、引田部族という一つの部族から起こったものと解せられる。

諸国にいろいろ引田という地がある。その中にもここ引田は、和名抄に出ているところの引田郷で全国的に最も大きい有力な引田部族のいた所である。「新撰姓氏録」から考えてみると、大国主神の後に、大神(オオミワ)ノ引田朝臣、三輪ノ引田君がある。それで引田ノ朝臣、引田ノ君の部族の祖先は、一応は祖神大国主神に落ちつくのである。それゆえに、佐渡国引田部ノ神社の祭神は、大巳貴神(大国主神)であるとせられる。

ところが、この引田部ノ神社は、引田明神ともいわれ異説として、その祭神は、孝元天皇の皇子大彦命であるというのが吉田東伍博士の「大日本地名辞書」に見えている。それは、このあたりに阿部氏の子孫が多い。それで、阿倍氏等が祖先の大彦命を祭ったのだろうというのである。大彦命は崇神天皇の時、四道将軍※の北陸大将軍となって行った人、また「斉明紀」に、越前国司阿倍引田ノ臣また阿倍引田の臣比羅夫※³なども斉明天皇のころ、越前守となっている。引田と名のつく所に阿倍氏の事あるゆえがあるのだろう。


※四道将軍

四道将軍(しどうしょうぐん)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、崇神天皇(3~4世紀)の命を受け、地方の勢力平定の為、4名の将軍を夫々異なる地方道へと向かわせた。

以下4名の将軍とは先ず大彦命(おおびこのみこと)と武淳川別命(たけぬなかわわけのみこと)は父子の関係で父親は北陸道、子の武淳川別命は東海道を担当し北上した。

また、吉備津彦命(きびつひこのみこと)は西道(山陽)の平定、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)は丹波国(山陰)の平定を担当した。

※3 阿倍比羅夫 (アベノヒラフ 生没年不詳)は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北へ航海して蝦夷を服属させ、諸説あり。北海道あるいは樺太の粛慎(ツングース族)と交戦した。現在の安倍晋三首相は自らこの安倍貞任の末裔であると??東北遊説にて名乗りました。さて、前掲の比羅夫と貞任の関係は??・・・


 
そこで東讃引田に八幡神がどうして鎮座せられているのであろうか。この社八幡宮であれば、之より祭神は応神天皇であるはずである。

「大川郡誌」を読んでみると、「引田八幡宮、一説 元引田神社」といって、孝元天皇の皇子大彦命を祀ったとある。果してそうであろうか。そこまで未だ詮索を尽していないが、もしもかりに、そうであったとするなら、佐渡の国の引田部の神社の祭神説と一致する。しかしながら、一方引田部族の祖神が大国主神ということと大彦命ということについて、一致点が見出されなくなる。

(中略)引田部族が祖神を祭ったものとすれば、考証的には祭神が、大国主神となるわけのものだが、ここにも、佐渡の引田部神社の如く、大国主神以外に、阿部氏関係があるのは、如何なるわけのものだろうか。この地に現に有力な阿倍氏ノ引田朝臣、阿倍ノ比羅夫関係によるのであろうか。

阿倍氏と阿部氏は引田の有力者で、代々相承してその家をなしてきたものと思われる。
(中略)阿部という姓は、阿倍という姓より後につけられたものと思われるが、元より同族のものと思われる。とにかく、東讃の引田に、阿倍氏と阿部氏と双方あるのが、私共昔のことを調べるものにあっては誠に興趣を覚ゆる。(中略)

世間にある阿部氏は、多く駿河の安倍郡から出ているとされているが、その安倍郡も、「古事記」「日本書紀」では阿倍であるが、「類聚国史」「後風土記」には阿弁となっている。攝津国の阿部野神社などは地名の阿倍野からきているのに、阿部野を以てしていられる。

引田の阿倍氏も、阿部氏も共にあるいは駿河の安倍郡から出ていて、阿倍ノ朝臣、阿倍ノ比羅夫から出ているとも思われるが、引田部族との関係が明らかでない。

ただ、陸奥地方の阿倍氏は朝廷が懐柔策として各家の姓を与えただけのもので、本来の阿倍氏とは何等の関係もなく、その子孫も本来の阿倍氏とは全く没交渉のはずである。

以上、4つの説を検討すれば、おのずから引田部族というのが浮かびあがり、それに関連して引田という地名が定着したとするのが、当を得ている。
(平成7年発行「引田町史 近・現代」より抜粋)


與田寺

四国八十八ヵ所奥の院—東かがわのパワースポット

天平11年(739年)に行基が開いたとされる真言宗別格本山。四国八十八ヵ所結願大窪寺奥の院に指定されており、「厄除けの寺」として有名です。


また、宝物館に所蔵された寺宝の多くは、国や県の文化財として指定を受けています。門前の樹齢600年を越える県の天然記念物の椋の木が、與田寺の長い歴史を感じさせてくれます。東かがわ市中筋466


水主神社

地元に愛される「社さん」—東かがわのパワースポット

創祀(そうし)は奈良時代以前といわれ、863年に讃岐の神社で最初に位階(正一位)を授けられました。旧大内郡の鎮守として応永年間(1394-1428)に最も栄えました。


祭神は倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)。
百襲姫は弥生時代に倭国の争乱を避けてこの地に居を定められ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、米作りを助けたといわれています。

境内には弘法大師空海の手掘りの井戸が厳かに佇み、樹齢800年の杉が神社の歴史を物語っています。東かがわ市水主1418-1


大内町(おおちちょう)

大内

「大内(おおち)」の名は、古い伝説によると紀元前孝霊天皇の皇女倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)(水主神社の祭神)が当地に移住され、皇女の住居を付近の人たちが「大内」と称したことに由来するといわれるが、その根拠は定かではない。しかし「大内」の名は、後に『続日本後紀』や『和名抄』・『全讃史』などの文献にも見え、大化改新(645)から「大内」の名が郡名として用いられ、明治32年(1899)大内郡と寒川郡を合わせて大川郡となるまで、実に2千年の長きにわたり愛称されてきた由緒深い名称である。

大内町の誕生とともに、旧町村の名称は正式の行政区画の名称からは消えていったが、三本松だけは「大内町三本松○○番地」のように字の名称として残った。しかし各種団体が行事を行う場合、大内町全域を対象とするにはあまりにも広すぎる場合もあるので旧町村単位に分割して行事が行われることもある。このとき旧町村名を用いて「三本松地区」・「誉水地区」・「丹生地区」と呼んでいる。

三本松・誉水・丹生の名称の起こりであるが、三本松の地名は古くから文献に見えるが誉水・丹生の名はそんなに古いものではなく、明治時代に名付けられたものである。

三本松の地名の由来は、『讃州府誌』(1915発刊・梶原竹軒著)によれば「邑の東部に三本の老松あり、因ってこの地を三本松と呼ぶ。」と伝えられているが、この三本松の地名が歴史上最初に明確に記されているのは、文安2年(1445)の「兵庫北関客船帳」の中の船籍地名として記載されている。また、明和5年(1768)2月榿園増田休意によって編さんされた『三代物語』には、「三本松浦に松の大木三株あり、因って名を得たり。一都会にして富人、大賈(豪商)多く大船80艘、小船70余艘あり、もとは64艘にて3964石たりしが今は増々多し。」とある。昔から三本松千軒と称し民家軒を並べて繁昌し、松平藩のお下蔵には旧大内郡からの上納米が集積され、港には常に大小数十隻の船がつながれていて東讃第一の物産の集散地であった。
(1954年発行「三本松町勢要覧」沿革の項より)

三本松町の沿革については、この「町勢要覧」は次のように述べている。

わが東讃の地は上古より日本民族の根拠地(大和方面)に接近せる関係上、この民族の勢力範囲であったことは疑をいれる余地はない。降って景行天皇の王子神櫛王が讃岐国造として来住(約1700年前)してから中央文化は東讃の地にも及び、孝徳天皇の大化の改新(645)により讃岐国司-大内郡司の支配下に入り小行政区画の里を郷に改められ、三本松は大内四郷中の白鳥郷八ヶ邑の一つとなった。(「和名抄」・「全讃史」による)中略

明治4年の廃藩置県により香川県第一大区大内郡第二小区三本松と称し、同6年2月香川県を廃し名東県、徳島県に合し、同8年9月再び香川県となり、同9年愛媛県に合併され、同11年7郡区改正により第一大区を廃すると共に我が三本松邑は川東邑と合併、同21年12月愛媛県より分離して香川県となり、同23年4月村制実施に当たり、白鳥郷より分離独立し、川東邑と分かれて三本松村となり、戸長役場を廃し村役場を置いた。

明治31年2月11日大内郡最初の町制を布き、同32年7月1日郡制実施に依って大川郡三本松町と称し、今日に至っている。
(昭和60年12月1日発行「大内町史」より抜粋)


白鳥町(しろとりちょう)

白鳥

「和名類聚抄」、および「延喜式」に、「大内郡白鳥郷(之呂止利しろとり)」とあるのは周知のとおりであり、また、平城宮跡出土の木簡に、「大内郡白鳥郷」と記されたものが発見せられているから、「白鳥」という地名の起りが、奈良時代を遡るのは間違いないようである。

さて、地名と白鳥神社との関係であるが、白鳥郷にある神社であるから、白鳥を冠して「白鳥神社」と名づけられたものか、あるいは、古くから白鳥神社が祭られていた故に、「白鳥郷」の名が生れたものか、いずれとも、にわかには決め難いことであるが、『名勝図会』は、「白鳥郷、神社によって郷名をなせり」としている。

猪熊信男は、外来氏族の坂上氏系統の「白鳥村主(すぐり)」の移住に、その起因を求めているが、松岡調は、「この白鳥村主の説いかがなり」と、否定的見解を示している。この「白鳥村主」は、大阪府の「古市陵=白鳥陵」の所在地である白鳥を本拠とした氏族であるが、香川県へ移住したという史実は、今のところ見当らないようである。

なお、全国的に見て、白鳥神社や白鳥を称する地名は、非常に多数みられるところより推測すると、「白鳥陵の陵守、または、日本武尊の御名代部(みなしろべ)である「武部(たけるべ)」に、深い由縁があるようであって、その部民等が、全国各地にその祖神として、白鳥神社を奉斎したのを、地名の起源とするのが、穏当のように思われる。
(昭和60年3月25日発行「白鳥町史」より抜粋)


日本武尊の白鳥伝説地

白鳥神社

  

概要・由来

概要

さぬき十五社 第一番 / 曼荼羅霊場 第七番 / さぬき七福神 恵比須神

鎮座所 香川県東かがわ市松原69番地

祭神 日本武尊(ヤマトタケルノミコト) 両道入姫命(フタジイリヒメノミコト)
橘姫命(タチバナヒメノミコト)

境内神社
五宮神社
祭神 仲哀天皇 神功皇后 應神天皇 稲依別王 武皷王 三社神社
祭神 吉備武彦 大伴武日 武内宿禰
青山稲荷神社 戎神社

境内地 四万坪

氏子区域 東かがわ市松原 白鳥 三本松 原間


白鳥神社裏境内地

裏境内地

当社の裏境内地は松林にして広さ十三町歩にわたり国立公園白鳥松原の 称あり。 白砂青松風光明媚の地にして白鳥海岸これに続き渺茫たる播磨灘に臨み、 遥かに阪神播備の地を控え四季遊覧客絶えず。 瀬戸内海国立公園に指定され、松原は御山(みやま)と呼ばれ、 海抜3.6メートルで、自然の山として日本一低い山であります。


かおり風景百選のクスノキ 

境内には約十本のクスノキがあり、環境省が選定したかおり風景100選の一つに選ばれています。 中でも香川県の保存木に指定されているクスノキは、樹齢約八百年、 高さ約三十メートル、境内の森に一段と威容を誇っています。


虎頭の舞

虎頭の舞は、白鳥神社秋祭の渡御にお供する獅子舞の一種であります。
江戸時代、近松の歌舞伎「国性爺合戦」を取り入れ、少年の和唐内が虎を退治する趣向で、県下でも数少ない舞になります。 無形文化財に指定。

だんじり子供歌舞伎

白鳥神社の春祭りでは恒例の「だんじり子供歌舞伎」が奉納されます。 照りつける日差しの中、子ども役者の演技を見ようと大勢の見物客が訪れます。
見事な見栄が決まると、会場からは大きな拍手と「おひねり」が。そう言えば、舞台の上は色とりどりの「おひねり」で身動きが取れないほどですね~



由緒

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は人皇(ジンコウ)十二代 景行(ケイコウ)天皇の皇子に在らせられ、勅命に依りて九州中国を、その後東国を征定し、帰途の途次、近江国の伊吹山にて病に触れさせ給ひ尾張国を経て伊勢国能褒野(のぼの)に至り病篤あつく、終に亡くなる。

実に、景行天皇四十一年なり、天皇その功をたたえ、武部を定め群臣に命じその地に山陵を造り厚く葬る。群臣入棺し奉まつりしに、神霊白鶴に化し西方に飛び去る、棺内にはただ衣冠のみ空く在す、その白鶴は大和国琴弾原に、また飛て河内国旧市の邑に至りまた更に飛て讃岐国大内郡鶴内の里に止りる。よってこの所に神陵を建てさせる。

成務天皇の時代、天皇の御兄弟神櫛王(カングシオウ)をして日本武尊の御子、武皷王(タケミカツチノオウ)に従わせて、讃岐の国造に封じ神陵を作らせる(武皷王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり)。

日本武尊の御子 仲哀(チュウアイ)天皇の時代神籬(ひもろぎ)を建て封戸を寄らせる。今の神社即ちその御跡である。

その後一盛一衰あるが、武家は弓矢の神となし崇敬深い。寛文4年讃岐守高松藩祖松平頼重(ヨリシゲ)侯こうおおいにその規模を拡め、社殿の修築をなし、領地をさき神領に寄し、幕府の朱印地に改めた。明治五年県社に列せられ現在に及ぶ。

日本武尊が病に・・・近江国(滋賀県)の伊吹山と三島池


日本武尊の話

大碓(オオウス)命と小碓(オウス)命の双生児がいました。しかし、あやまって小碓は大碓を殺してしまいます。そのことに帝は怒り、小碓を熊襲(くまそ)征伐という名目で大和から追放してしまいます。

熊襲の国ではタケルの宮殿が新しく造られ、各国造の客人で宴がたけなわです。その時、宮殿が闇となり、その一瞬にタケルが殺されます。そして混乱の中で、自分を討った小碓に、自分の名をとりヤマトタケルと強者の魂を授けました。

大和国に熊襲より帰ったヤマトタケルでしたが、父帝は蝦夷(えみし)征伐に行けと命じます。ヤマトタケル命は、伊勢の倭姫を訪ね、出発します。

相模の国造の計略で四方を火に囲まれ、倭姫にもらった火打石と剣で難を逃れます。

次に走水の嵐の中で橘弟姫は海に身を踊らせ、海を鎮めます。 大和への帰りに伊吹山の神の退治に出かけ、病に冒され、能煩野(のぼの)で息を引き取ります。しかし、ヤマトタケルは白い鳥となり、飛び去ったと伝えられています。 そして、讃岐の国松原村に舞い降りて、白鳥神社として祀られた。


さぬき七福神

平成13年正月から、東かがわを中心に「さぬき七福神」が開創されました。

白鳥神社 恵比須神(えびすしん)

田村神社 布袋神(ほていしん)

滝宮天満宮 福禄寿(ふくろくじゅ)

與田寺 寿老人(じゅろうじん)

法然寺 大黒天(だいこくてん)

香西寺 毘沙門天(びしゃもんてん)

国分寺 弁財天(べんざいてん)

以上三社四寺の神仏混ごうです。 それぞれの神社仏閣は、古より篤い信仰を集めており、それぞれの福神を祀る由緒ある社寺です。 七福神の社寺それぞれにカードを授与しております。また、七福神の軸もできました。 三社四寺を巡り、東かがわの歴史とロマンを楽しみ、ご参拝ください。


三十六歌仙扁額 市指定文化財

桐木地着色、黒塗木枠付、縦58.5センチ、横40.5センチ、昔は拝殿内に掲げられていた。 寛文4年、松平頼重奉納。

画家 狩野永真(安信)

和歌筆者

妙法院宮二品尭恕法親王(後水尾天皇皇子) (兼輔、敦忠、公忠、朝忠、高光、忠岑)

聖護院宮二品道寛法親王(同上) (業平、素性、猿丸、遍照、友則、小野)

青蓮院宮二品尊證法親王(同上) (女御、敏行、宇于、頼基、重之、信明)

曼殊院宮二品良尚法親王(八条宮智仁親王子) (清正、興風、是則、順、元輔、元真)


三十六歌仙扁額

平成20年 9月、北小路成子奉納。 


猪熊家について

白鳥神社の宮司は代々猪熊家が継いで来た。

兼古は国学、神典に精通しており、承応2年宇和島の和霊神社の創建に参画した。
寛文4年、松平頼重に招かれて白鳥神社の宮司となっているが、事前に頼重の委託を受け、唯一神道に基づいて、神社の設計や、運営などを献策した。
延宝元年正月、隠居した頼重は聴徳院において、神書、仏典、儒書などを聴講しているが、講義初日の講師として招請せられ、『日本書紀』を講義した。


猪熊夏樹
慶歓の末子。幼名千枝、通称は舎人。明治40年、白鳥神社宮司。 明治39年1月10日、初めて御講書始めに召され、同45年まで連続して7回に亘って『日本書紀』などを御進講申し上げ、また、『古語拾遺』についても御講義申し上げた。なお、明治40年御歌所寄人を命ぜられ、京都女学校教諭などを歴任した。

猪熊兼幹
浅麿の長男。大学卒業後内閣統計局に勤め、昭和8年白鳥神社社掌に就く。故実に通じ斯界の権威者として重んじられた。昭和42年卒。行年68。


境内案内図 

白鳥神社 拝殿

白鳥神社 拝殿~祓所

まず、手水舎へ・・・



編集後記

ふ〜っとため息をつきました。多くの皆様におかれてもそうかも知れませんね?知らないことだらけ!

歴史マニアにとっては、賛否両論で白熱炎上間違い無し!歴史的に時の為政者発信の公式歴史論とローカルな郷土史との間には解釈の乖離があったり、年代が異なったり…色々問題が噴出するのでしょうね〜

どちらが正しいのかは、何れ、明らかになるのかもしれませんが、永遠に謎の侭かも知れず…そこがまた、ミステリアスで更にロマンを掻き立てるのでしょう。

小生なんぞは関ヶ原合戦以降の話には血沸き肉踊るのですが、古代史になるとからっきし、ちんぷんかんぷん?異次元の世界です。ただ、こうした新しい出会いは確かに面白く新鮮ですが、その自転車操業に心身の消耗加減はかなりのものであります。ふぅ〜っ ! ー これっ!舞台裏を見せるでないゾー …… ですね〜 毎日バーチャルに東奔西走は当然のお役目ですからね。

ところで、この度一番面白かったのはなんと言っても古い地名の表記や発音でした。特に、記憶に残ったのは…

鹿角 (かのつの) 高松市

引田 (ひけた) 東かがわ市

迯田 (にげた) 坂出市

凹原 (ひっこんばら) 高松市

久米氏 (きみょうじ) 丸亀市

でした。

特に「ひっこんばら」は爆笑モンでした。小生なんか最近とみにせり出して来た腹をひっこんばらにしてくれよ〜です。

もう一つ、迯田 (にげた)でした。ちょっと興味が湧いて、このしんにゅう又はしんにょうの意味を調べたら…

「辶・⻌」は「辵」の略字。 ※「辵・辶」は「⻌」の旧字。 下にかけて置かれるもの」の総称。 ... 「辵(辶・⻌)」をもとにして、道、迷う、遊ぶ、迫る退く、巡る、遠い、近い… 等に関する漢字ができている。

なるほど ‼ 「⻌」の意味は
どうやら「道」らしい?
すると迯田 (にげた) は「⻌」+ 「外」なので、道から外れた…つまり逃げたけしからんヤツなんだ〜 おいおい…事情も知らん癖していい加減なことほざくな〜 いえいえ このユーモアのセンスこそ、保存してきた地元民のおおらかさとその知性はあっぱれだと感心したのですよ〜(^^♪



次号「むしろ麹法」伝統醤油の かめびし屋へ続く・・・



大神神社、四道将軍と雛祭り関連情報は下記のリンク記事をご覧下さい。


ZIPANG TOKIO 2020「神代に始まった古社中の古社 原初の神祀りの様を伝える 三輪明神 大神神社(その壱)」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3440523


ZIPANG TOKIO 2020「古社中の古社 三輪明神 大神神社 四季のおまつり(その弐)」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3450591


ZIPANG TOKIO 2020「天皇陛下のおことば と 国家・御皇室の安泰と国民の幸福を祈る大神神社の年頭を飾るご神火の祭典(新年特別編)」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3488031


ZIPANG TOKIO 2020「大和国一之宮 大神神社 摂社『率川(いさがわ)神社』について(その参)」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3662990


ZIPANG TOKIO 2020「伊賀一宮 敢國神社 1300年以上前『四道将軍』から始まり 観阿弥~服部半蔵~松尾芭蕉 そして神の社は未来を開く」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2331520/


ZIPANG TOKIO 2020「国宝 吉備津神社は日本建築の傑作 全国唯一の建築様式『吉備津造り(比翼入母屋造)』一見の価値あり!吉備文化の基礎を造った四道将軍が祀られている」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2386157


ZIPANG-4 TOKIO 2020 黄金の国ジパング『ケセン』(その1)

https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/8824030


ZIPANG TOKIO 2020「無形文化の伝承こそ長浜市の誇り!ユネスコ無形文化遺産 日本三大山車祭『長浜曳山まつり』4月開幕!」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3782782/


ZIPANG TOKIO 2020「『宿場の雛まつり』昔『おひなさん、おみせってくなんせ』と言って子供たちが家々の雛人形を見て歩いた。花巻市大迫町で290年前の雛まつり復活!」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3766265/


ZIPANG TOKIO 2020「日野ひなまつり紀行~昔と今、街を巡る、時を巡る~近江日野商人のお雛様とお屋敷(桟敷窓)拝観」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3754836


ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~雛と紅花の里 河北町~ 「谷地ひなまつりに秘められたお婆ちゃんたちの思いとは・・・みちのくひなまつり発祥の地より(第二話)」

https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5901235


ZIPANG TOKIO 2020「特別展 尾張徳川家の雛まつり と 徳川美術館の建築」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3742766/


ZIPANG-2 TOKIO 2020 「中山道の春はお雛様とともにやって来る!大湫宿~岩村町(大井宿)~妻籠宿」

https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5662725/



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使



協力(順不同・敬称略)

香川県 東かがわ市
〒769-2792 香川県東かがわ市湊1847番地1 地域創生課 TEL 0879-26-1276

白鳥神社 〒769-2702 香川県東かがわ市松原69番地 TEL:0879-25-3922

日原もとこ 東北芸術工科大学 名誉教授
風土・色彩文化研究所 主宰 まんだら塾塾長 えみし学会会員

公益社団法人香川県観光協会
〒760-8570 香川県高松市番町四丁目1番10号 電話番号:087-832-3379

東かがわ市観光協会 〒769-2792 香川県東かがわ市湊1847番地1 TEL: 0879-26-1276



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ZIPANG-4 TOKIO 2020

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。この機会に、世界の人々にあまり知られていない日本の精神文化と国土の美しさについて再発見へのお手伝いができればと思います。 風土、四季折々の自然、衣食住文化の美、神社仏閣、祭礼、伝統芸能、風習、匠の技の美、世界遺産、日本遺産、国宝等サイトを通じて平和な国、不思議な国、ZIPANG 日本への関心がより深かまるならば、私が密かに望むところです。

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